預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

誤解してはいけない(ヨハネ12:12~15)

12:12 その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、
12:13 しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
12:14 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。
12:15 「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」



 主は、十字架にかかるために自らエルサレムに入って行かれた。その時、人々は、『イスラエルの王』と喜び迎えた。だが、わずか4日後には『イエスを殺せ』と叫ぶ。驚くべき心変わり。その原因は、人々がイエスを「政治的な王」と誤解していたことにある。


 私達の中にも、神への先入観、固定観念、偏見、誤解……などが意外にあるかもしれない。例えば、「主よ、何故、私の祈りに答えてくれないのですか」と不満に思うとすれば、それは裏返せば、「神は常に私の要求に答えなければならない」と誤解しているということではないだろうか。本当は、神が私達の要求に答えるべきなのではなく、私達が神の要求(御心)に答えるべきなのである。


 また、「神がいるなら、何故、この世には不幸があるのか」と、つまり「神は全ての苦しみを取り除かなければならない」という誤解。勿論、やがて、その時が来たら、そうされる。天国には、もはや苦しみはない。しかし今は、まだ罪ある人間であり、地上に生きる限り、試練・患難はある。だから主は、苦しみを取り除くのではなく、共に苦しんで下さるのだ。例えば、受験戦争は子供にとって試練であり、苦しみであろう。それを親が取り除いてやる(進学の機会を奪う)ことが最善かと言えば決してそうではない。むしろ、共に苦しむ、共に乗り越える、それが良いことである。そのように主は、エルサレムの滅亡を預言して、「ああエルサレム、エルサレム」と涙を流された。まさに、泣く者と共に泣いて下さったのだ。そして、罪と死の中で苦しみあえいでいる人々のために、自ら苦しんで下さった。それが十字架だ。そして今も、人々の救いのためにとりなして下さっている。


 だから、たとえ今、もし、苦しみの中にあるとしても、誤解してはならない。主は、あなたを見捨てているのではなく、共に苦しんで下さっているのだ。主は、真の王。民のために自らを犠牲にして下さったお方。ゆえに、『恐れるな。あなたの王が来られる』と聖書は言う。真の王・救い主イエスを心にお迎えし、主について行こう。

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