預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

私を食べなさい(ヨハネ6:47~51)

6:47 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
6:48 わたしはいのちのパンです。
6:49 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。
6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」



 主は、ご自身を「命のパン」と表現された。それは、「命の(生きる)ためのパン」(Bread for life)という意味ではない。『人はパンだけで生きるのではない』と聖書にある通り、生きるためにはパンだけでは十分ではないからだ。主が言われたのは、「Bread of life」であって、主は「命であるパン」、命の源・命そのものであられるお方だということだ。


 では、何故「私は命だ」と言わないで、「命のパンだ」なのか。それは、パンは食べるものだからである。つまり、どんなに素晴らしいパンも、眺めてるだけ、触ってるだけ、いじってるだけでは腹は満たされないということだ。食べてこそパンは意味がある。それゆえに主は、ご自身を「パン」と呼び、『私の肉を食べ、血を飲む者は永遠の命を持つ』(ヨハネ6:54)と言われたのである。要するに、主は「私を食べなさい」と言っておられるのだ。


 それでは、どのようにして「命のパンである主イエスを食べる」のか。まさか、本当に噛みつくわけではあるまい。弟子達も理解出来なくて、つまづいた。


 ヨハネ6:63には、主イエスの言葉は霊であり命である、と教えられている。すると、「命のパンを食べる」とは、「命である主の御言葉を信じ従う」ということになる。事実、『私の肉を食べ、血を飲む者は永遠の命を持つ』という主の言葉を信じるとき(すなわち、十字架で裂かれた主の体と、流された血潮は私のためだった、と受け入れ従うとき)、本当にまことの命を得る(天国を得る)のである。


 私達は、「命のパン」である御言葉を目で読み、意味を探ろうとしてはいる。しかし、どんなにパンを眺めても、いじくっても、食べなければ何にもならない。御言葉のパンも、食べる(信じ従う、実行する)ということがなければ、人生は変わらないのだ。例えば、『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことについて感謝しなさい』という御言葉も。読めば分かるし理解は出来る。しかし、祈らなければ、何も起きはしない。ヤコブ書にもあるように、御言葉は、聞くだけでなく、実行するものである。命のパン(御言葉)は、眺めるだけでなく、食べる(実行する)ことによって満たされるのだ。

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