預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

残念ながら、……ではない(ローマ8:31~37)

8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
8:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。



 神が味方についている人には、御子と一緒に全てのものが与えられる。
「やった! 大金持ちになれるぞ、願いは何でも叶うぞ!」と喜ぶ人もいるかもしれない。しかし残念ながら、聖書が「すべてを恵む」と言うのは「御子と共に御国の共同相続人となる」ということだ。つまり、決して罪に定められることはない、地獄に落ちることはない、ということであって、願いが何でも叶うということではない
 ところが、サタンは訴える。「おまえは罪人だ」と。
 しかし、主は、信じる者の罪を赦す為に身代りに死んで下さったお方。そしてよみがえって、今も生きて働いておられる全能の神である。そのお方が、私達の為にとりなしていて下さる、と聖書は言うのだ。十字架による罪の赦し、救いは揺るぐことがない。


 続いて、『神に選ばれた人々を訴えるのは誰か、罪に定めようとするのは誰か、キリストの愛から私達を引き離そうとするのは誰か』だが……「そんな者はいない」と聖書は言っている、のではない。『神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう』も、「クリスチャンに敵対できる者など誰もいない。クリスチャンは無敵だ」と言っているのではない。敵対する者は「ある」と言っているのだ。それは例えば、患難、苦しみ、迫害、植え、裸、危険、剣など。まるで死に定められたかのように、ほふられる羊のように、絶体絶命の危機に常に襲われている、と言うのだ。しかし、『これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となる』と聖書は言う。なんという素晴らしい約束の御言葉であるか。だが、それは、あくまでも、「神が味方であるならば」だということを忘れてはならない。


 そこで問題は、神は誰の味方になってくれるのか、ということだ。逆に言えば、神に敵対することとは何か。Ⅰペテロ5:5は『神は高ぶる者に敵対し』と教える。つまり、神に味方についてもらう為に必要なのは、へりくだりだ。加えて、ヤコブ4:4は『世を愛すること(世の友となること)は神に敵すること』と教える。それは文脈から明らかなように、「自分の欲望の為に祈ること」である。勿論、祝福を求めて祈ってもかまわない。しかし、自らの祝福をゴールとするのではなく、その結果、神が崇められることをゴールとしなければならない。神の栄光を差し置いて、自分の栄光(欲望)を求める、それが「神に敵対すること」なのだ。ゆえに主は言われた。神の国と神の義を第一に求めなさい、と。それこそが、神が味方である人だ。そうすれば何も恐れることはない。主がとりなして下さっている。

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