預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

今だ、イマだ、いまだ!?(Ⅰテサロニケ5:1~11)

5:1 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。
5:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
5:3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
5:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
5:5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
5:6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
5:7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。
5:8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。
5:9 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
5:10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。
5:11 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。



 テサロニケ書の大きなテーマは、「再臨」である。すなわち、「世の終わり」に関することだ。しかし、そうでありながらも、『落ち着いた生活』を勧め、『自分の仕事に身を入れ』るように、と命じる(4:11)。


 今さえ良ければいい、あるいは、最後さえ良ければ今はどうでもいい、ではなく、今と先、両方をバランスよく見ることが必要だ。例えば、人間には二つの目がある。何故か。一つの目では、距離感も立体感もつかめないからだ。複眼的な見方をしなければ、物事の本質は見えてこない。霊的な事柄においても、「信仰」と「理性」という二つの目をもって全てを見極めて行かなければならない。そうする時に、人生が見えてくる。


 しかし、多くの人は、「今」しか見ていない。勿論、「今」も大事だ。聖書もそう言っている。けれども、一つの目だけでは距離感がつかめない。もう一つの目、信仰の目を加えて見ることによって、人生の全体像、近くと遠く(今と永遠)が見えてくるのだ。


 ゆえに、信仰の目(永遠を見る目)を養わなければならない。つまり、「今(目の前の問題)」だけを見るのではなく、後に現わされる神の栄光を見る、ということだ。もし、「今」だけを見るなら、絶望してしまうこともあるかもしれない。しかし、主は必ず良いことをして下さる、全てのことを益に変えて下さる、という信仰によって「後」を見るのである。


 決して、「今(この世)」のこと(現世ご利益……癒し・奇跡・祝福)ばかりを求めるべきではない。この世の人生は短い。しかし、その後には、永遠の世界が待っているのだから。後の備えのための「今」であることを忘れてはならない。


 『ですから』と、聖書は、『励まし合いなさい』『徳を高め合いなさい』(5:11)と言う。どのようにしてか。それは、主は必ず良いことをして下さる、という「信仰の目」を持つことによってだ。確かに、現実には問題はある。しかし、主は全てを益に変えて下さる。そのような、「理性の目」と「信仰の目」をもって「今」と「後」を見よう。

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