預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

騙されてはいけない(ヤコブ1:16~17)

1:16 愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。
1:17 すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。



 厄病神という言葉があるように、神が不幸をもたらすという考え方がある。時には、クリスチャンでさえ、神に対して怒り、神に見捨てられた、と考えてしまうことがあるかもしれない。しかし主は言われたではないだろうか。『私はあなた方を捨てて孤児とはしない』と。


 主は良いお方である。ゆえにヤコブは、『だまされないように』と言う。『全ての良い贈り物は、父なる神から来る』『父には移り変わりはない』と。


 神には移り変わりがない、という言葉から幾つかのことが分かる。


①神は永遠である
 時の流れ――移り変わり――に支配されない。それゆえに、未来を見通して、
 「今」に働かれる)


②神の約束は変わらない
 草は彼、花はしぼむ。しかし……との御言葉の通り。


③神は完全である
 人間は成長するし、衰えもする。
 しかし神は成長しないし、衰えない。元々、完全であり、完全なままである。


④人間は神になれない
 人間が神になれるなら、神にも移り変わりがあるということになってしまう。


 問題は、それでも人は、神になろうとする、ということだ。多くの宗教が、「神になれる」と教える。いつの時代も人は、神のようになることに憧れるのである。
 創世記3章で、蛇は言った。『この木の実を食べたら、あなた方は神のようになれる』と。これが人間をだます時の「殺し文句」だ
 それ以降、様々な方法で、人は神を目指した。バベルの塔しかり、新興宗教しかりだ。そして今も、私達は、知らず知らずの内に、神になろうとしているのかもしれない。それは、「神に頼らない」ことによってだ。それは、自分を神とするに等しい。何故なら、神を必要としないのは唯一、神ご自身だけであるからだ。全知全能の神にとって、他の神に頼る必要は何もない。しかし私達人間には、神が必要だ。


 「神に頼らなくても自分で何でもできる」「そんなに祈らなくても幸せになれる」……そんな声にだまされてはならない。主を求めよう。求める者には神は報いて下さるのだから。

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