預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

どんだけ~(ルカ7:36~50)

7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
7:37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
7:38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
7:39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。
7:40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。
7:41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
7:42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
7:43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。
7:44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
7:45 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。
7:46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
7:47 だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
7:48 そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
7:49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
7:50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」



 罪の赦し・救い、についての教えは、キリスト教の中心であり、それが曖昧だったり、曲げられたりすると、それはもはやキリスト教ではなくなってしまうほどの重大な問題である。


 さて、「罪深い」と言われる一人の女性に対して、主は、「あなたの罪は赦されています」と言われた。その理由は、『よけい愛したから』である。


 ここでまず、疑問は、愛したら救われるのか、ということだ。それも、『よけいに』、つまり、人より多く、適量を超えて、神を愛すなら救われるということなのか


 聖書は言っている。主イエスを『信じてバプテスマを受ける者は、救われます』(マルコ16:16)と。それが唯一の救いの条件だ。


 では、この女性は信じていたのか。それは言葉には出ていない。しかし、行動に表れている。すなわち、主への愛だ。それを見て、主は、信仰がある、と判断された。それを説明する為に、金貸しに赦された二人の人の話が出てくる。どちらが余計に金貸しを愛するようになるか、という主の問いに、シモンは、「よけいに赦してもらったほう」と答えた。そして主は、それを正しいとされた。つまり、沢山愛したのは、沢山赦された証拠だ、ということである。それは、被造物があるということは創造主がいることの証拠だ、というのに似ている。


 とにかく、もし、神を多く愛しているとすれば、それは、多く赦されたからなのだ。


 では、私達は、どうか。自分は、多く赦された方なのか。と言っても、罪の量(赦された量)を人と比べる必要はない。問題は、赦された分に見合うくらい主を愛しているか、だ。それを判断する為には、まず、自分がどれだけ赦されたのかを知らなければならない


 主は、私達の罪を赦す為に、十字架で死なれた。罪の無い神の御子が、神のあり方を捨てることが出来ないとは考えないで、御自分を無にして、命をも捨てられたそうしなければならないほど、私達の罪は大きかった。そして、それぐらい私達は赦されたということだ。それを認識して、更に主を愛する者となろう。

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