預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

奇跡で儲ける?(Ⅱ列王記4:1~6)

4:1 預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」
4:2 エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」
4:3 すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。
4:4 家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」
4:5 そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。
4:6 器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。



 預言者エリシャの“ともがら”(預言者仲間であって、預言者学校の生徒ではない)の一人が死んだ。で、借金のかたに二人の子供が奴隷として連れて行かれようとしていた。結果的に、油が溢れるという奇跡で借金を払っても有り余る程のお金が手に入ったので助かった。


 主御自身も、似たような奇跡をカナの婚礼で行った。それらは事実だと信じる。ならば、昔も今も変わることのない主が同じような奇跡を行って私達を豊かにして下さらないのは何故なのか


 そもそも、神の力・奇跡は、人間の欲望を満たす為のものではない。カナの婚礼のときも、飲み足りない客を満足させる為になされたのではなく、神の栄光の為(証拠としての奇跡として)だ。何の証拠か「神の救いの計画が進んでいる」ということの証拠である。だからそれが「キリストの栄光の現れ」(ヨハネ2:11)なのである。だから「売って大儲けしよう」と考えて、蛇口から葡萄酒が出て来るのを期待しても、そんな奇跡は起きないのである。


 では、エリシャのときは何故、油が溢れたのか。そのときも、借金を返す為(お金を得る為)だったはずではないだろうか。そう、だがしかし、解決すべき本当の問題は、借金ではない。借金のかたに「子供が奴隷にされる」ということだ。それは律法で禁止されていたのである(レビ記25:39)。つまり、神の言葉が無効化されてしまわない為の奇跡だったということなのである。主も言われた。律法の一点一画さえ決して廃れることはない、と。何故なら「神の言葉は絶対」と信じる、それが信仰だからだ。だからこそ、神の言葉の絶対性が崩されてはならないのである。言わば、この奇跡は、信仰の土台を守る為なのだ。そして、キリストに導く為の備え(律法は養育係)なのである。


 「神の言葉は決して廃れることはない」と信じるのが「信仰」だ。たとえ世の中が、どれ程荒れ果てようと、疫病が蔓延しようと、キリストを信じ、キリストの教えの真実に留まる者には、新天新地で永遠の命と新しい体が与えられる、この約束は揺るがない。神の言葉が無効化されることはないのである。その信仰を確立させることの必要性を、この油の奇跡から、私達は学ぼう。

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