預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

抑圧ではなく励ましを!(ローマ12:2)

12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。



 この世と調子を合わせてはならない、と聖書は言う。代表的には、偶像礼拝だ。それは神の御心に適わない。私達は、神の御心に合わせて生きるべきである。


 ただ、問題は、何が本当に神の御心であるのか、だ。聖書は、本当は何を教えているのか。そこにプロテスタント発生の原点があるのであって、それを追求することをやめてしまってはならないのである。


 ある人は言う。「キリストは好きだけど、キリスト教は嫌いだ」と。そのような発言が出る理由は何か。それは、「キリスト教の教え」が、「キリストの心」と一致していない(ことが多々ある)からだ


 例えば、クリスチャンは○○してはならない、○○してはならない、などと考えている人は多い。それは信者のみならず、未信者にもだ。しかし、


Ⅰコリント6:12『すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。


同10:23『すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。


を見れば分かるように、何を食べるか何をするかは自由だと聖書は教えている。ただし、全てが有益とは限らない(つまり、有害なものもある)ということだ。


 要するに、「○○してはいけない」のではなく、「益となることをせよ」というのが聖書の教えているところであって、それが「キリストの心」なのだ。同時に、それが「律法によってではなく、信仰によって生きる」ということなのである。


 また、マタイ5:34から、「誓ってはならない」という「キリスト教の教え」がある。結婚式において、「愛」さえも誓ってはならないと、徹底している。しかし、「キリストの心」は、そうではない。Ⅰペテロ3:21によれば、バプテスマは神への(これからは神に従います、という)誓いである。そして主は、『バプテスマを授けなさい』と言われた。言わば、「誓わせなさい」ということだ。そのようにして、『全ての人が救われることを神は望んでおられる』、それが「キリストの心」なのだ。パウロも、自ら誓いを立てて髪を剃った(使徒18:18)。


 このように、「何が神の御心か」をわきまえ知るために『心の一新によって自分を変えなさい』と聖書は言う。それは、「考え方を変えなさい」ということだ。伝統や神学、定説などではなく、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか……を追求する考え方になる必要があるのだ。私達は、キリストの心(神の御心)を学び取って実行することを追い求めていきたい。

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