預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

命のレストラン(マタイ11:28~30)

11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」



 「レストラン」の語源は、「レストレー」というフランス語らしい。それは、「休憩して元気を回復する」という意味なのだという。日本でも、観光地などの食堂には「ご休憩所」と書かれてあったりする。


 さて、主は、『あなたがたを休ませてあげます』と言われた。この「休ませる」は、ギリシャ語では「アナパウオー」であり、「休耕地にする」という意味の言葉(田畑は、同じ作物を連作すると、土地が疲れて不毛化する。だから、土地を休ませて、力を回復させる……それが「アナパウオー」)である。


 つまり主は、生きるのに疲れて何も実らせることが出来ない人を休ませて回復させてあげる、と言われたのだ。それも、ただ休ませるだけではない。人間が本当の意味で生きる為の食物である「命のパン」をも与えて下さって、魂を養い、生きる力を与えて下さる、まさに「命のレストラン」なのである。そして『わたしのところに来なさい』と、主は招いておられる。
 ――余談だが、主が言われているのは、「疲れた人はみんな来なさい」ということではない。それだと、「疲れてない人は来なくてもいい」ということになってしまう。本当は「すべて(の人は)生きるのに疲れているのだから、一人残らず、みんな来なさい」ということなのである――


 ただ、フレンチレストランなどでは、メニューもフランス語の場合がある。客も、少しはフランス語を知っている必要がある。主イエスも、『学びなさい』と、私達に要求する。それも『わたしのくびきを負って』だ。『そうすれば魂に安らぎが来る』と。


 本当なら、くびきなど負いたくはないものである。しかし、主のくびきは『負いやすい』(脚注では「心地よい」)のだという。心地よいくびきとは? それは材質の問題もあるかもしれないが、それ以上に、心地よいかどうかは、繋がる相手次第だ私達は、主と共にいたい、と願っている。見捨てないで下さい主よ、と訴える者である。そういうお方と「くびき」によって繋がるなら、いつも共にいて同じ方向に進むことが出来るのだから、つらいどころか、嬉しく、心地よいのだ


 そして、師といつも共にいて学ぶ、それが弟子だ。私達は、いつも御言葉に親しみ、主の示される道へと進もう。そうすれば魂に安らぎが来る。逆に言えば、魂に安らぎがないのは、主と共にいないから、主に逆らっているから、主の導きを拒んでいるから、だということになる。そのようなことはやめて、主のくびきを負って、主と共に歩む者となろう。

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