預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

もし・・・なら、絶望(ピリピ3:17~21)

3:17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。



 パウロは、ひたむきに目標を目指して一心に走った。そのような生き方を見倣うように、と言う。それも、すでに達している所を基準として、だ。勿論、信仰の成長具合とか、知識とかは、人それぞれだ。しかし、全てのクリスチャンがすでに到達している所がある。それは、天に国籍を持つ者となった(救われている)ということだ。そこが基準であって、いつもそこから進んで行くのである。決して、後戻りしてはならないし、救いを疑うべきではない。パウロのように、前進あるのみだ。


 『と言うのは、多くの人が十字架の敵として歩んでいるから』だと続く。それは、教会を迫害しているというようなことではない。その意味は、地上のことだけを考えて生きているということだ。


 多くの人は、そのように、この世のことだけを考えて生きているのであって、『彼らの最後は滅び』だと聖書は厳しく指摘している。それは、神によって決められていること(裁き)であり、変えることの出来ない厳然たる事実の提示である。


 その逆は、『信じてバプテスマを受ける者は救われる』だ。従って、ハッキリ言えることは、十字架の敵として歩むなら、その最後は滅びだ、ということである。(ただし、私達人間が「あの人は天国、あの人は地獄」などと神のごとくに断言することは出来ないが、その目安となる基準はハッキリしているということだ


 ゆえに、クリスチャンであっても、もし、十字架に敵対するなら滅びる危険がある。例えば、もしクリスチャンが、天国の希望を忘れている(その希望を第一としていない)ならそれは、十字架に敵対することなのである。何故なら、十字架は、信じる者に天国(救い)を与えるためのものであるからだ。なのに、天国の希望を忘れて生きるなら、それは十字架に敵対することになってしまう。


 『けれども、私達の国籍は天にある』と聖書は断言する。そう、それこそが、私達全てのクリスチャンの達している所(基準)なのだ。そこから更に、ひたむきに、前進して行かなければならないのである。


 決して、地上のことを無視しろというのではない。しかし、もし、地上のことしか考えない(天国の希望を忘れる)なら、最後に残るのは、絶望だけだろう。それが、十字架に敵対することなのだ。私達は、いかなる時も、天国の希望を持って歩もう。そこが基準である。

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