預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

何のこと?(ヨハネ10:1~6)

10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
10:2 しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。
10:3 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
10:4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
10:5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
10:6 イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。



 聖書は、究極的には、全ての人に対する神からのメッセージである。が、それ以前に、聖書に記されている「言葉」は、「その時、誰に対して語られていたのか」を無視してはならない。


 さてそこで、ヨハネ10:1~5の例え話だが、これはパリサイ人達に対して語られている。つまり主は、当時の宗教的指導者達は盗人で強盗だ(人々から天国を奪い去っている)と、非難しているのである。それが、「その時」のメッセージだ。所が、語りかけられた(それを受け取るべき)当のパリサイ人達は、『何のことかよくわからなかった』という。このことの意味は深い。


 主は言われた。羊は自分の牧者の声を知っている、と。呼ばれたら分かる、それが羊だ。いや、むしろ、方向音痴である羊は、自分の牧者の声を敏感に聞き分けてついて行かなければ、死を招いてしまうのだ。同様に、私達(主の羊)も、私達の魂の大牧者であられるお方の声に敏感にならなければならない。つまり、「それが本当に主イエスの声かどうかを聞き分ける必要がある」ということだ。これが、この例え話の持つ「全ての人へのメッセージ」である。語りかけられた私達は、それが『何のことかよくわからなかった』ではいけないのである。


 所が、それが難しい。よく似た声が沢山あるからだ。勿論、声と言っても、耳に聞こえる声のことではない。それは、聖書の教えのことだ。「これは本当に聖書の教えなのか」「何か混じってはいないか」……それを見分けるのは容易いことではない。下手をすると、アダムとエバの二の舞になってしまう。


 と言うのは、Ⅱコリント11:13~14に、にせ使徒、にせ預言者の存在が言及されいるし、第二ヨハネ1:7には『反キリストが大勢世に出て行った』とあるからだ。『しかし、驚くには及びません』と言うのだ。何故なら、『サタンさえ光の御使いに変装する』からだ。それほどに、偽りの教え(キリストの心からかけ離れた教え)が蔓延しているということだ。


 私達は、主イエスの声(聖書の教え)を自分で聞き分けなければならない何が神の御心か、何が聖霊の導きか、を判別しなければならない。それが出来ない(させない)ようになっているとしたら、それはもはやマインドコントロールされているということなのかもしれない。
 私達は、主イエスの声(教え)を知る者となろう。

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