預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

キレてないよ(エペソ5:31~32)

5:31 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。



 人は妻と結ばれ、一心同体となる……これは奥義だとパウロは言う。つまり、それは単に夫婦についてのことではなく、キリストと教会とのことだと言うのだ。


 やがて来る「子羊の婚姻」の時、教会はキリストの花嫁となるのだが、神は初めから、そのモデルとして、男と女を造ったのだ。


 ゆえに、私達は、キリストと結ばれなければならない。まさしく「神の連れ合い」となるのだ。そして、正式に、固く、結ばれる為には、律法(罪)に対して死ななければならないのである。
 そのことを、ローマ7:1~6で、夫婦の場合にたとえて教えられている。つまり、夫が生きている間に他の男の元に行けば、律法によって、姦淫の罪となるが、夫が死ねば、新しい主人と結ばれることが出来る。同じように、私達も、新しい主人であるキリストと本当に結ばれる為には、前の主人(律法・罪)との関係が完全に切れていなければならないのだ。そうすれば、キリストと共に生きる(いつも共にいる)、すなわち、キリストと結ばれるのだ。


 だが、黙示録で、キリスト御自身が、教会に対して語っておられる箇所がある。その中の有名な御言葉が、黙示録3:20――キリストがあなたの心の扉をノックしておられる。その扉には内側にしか取っ手がない。今、心を開くなら、キリストが入って来て下さる。「さあ、今、信じましょう」というふうな導きの時に使われる御言葉――だ。


 しかし、実は、この御言葉は、教会に対して語られているということを忘れてはならない。つまり、本来、キリストと結ばれているべき教会の外にキリストが追いやられている、という状況を見るわけである。神の宮である教会、キリストの花嫁である教会の外で、キリストが「私を入れてくれ」と呼びかけているのだ。なんということだろう。『だから、熱心になって、悔い改めなさい』と前節にある。


 今、教会こそが、悔い改めを必要としているのではないか。「キリストの心からかけ離れた教え」「人間中心」「ご利益主義」……そんな信仰ではなく、キリスト中心、御言葉を守る教会(黙示録3:8)こそが、本当にキリストと結ばれた、キリストの花嫁なのだ。

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