預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

どうしても・・・(ルカ10:38~42)

10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」



 マルタが、もてなしをしていたこと自体を主は責めてはおられない。一人一人異なった賜物を持っているのだから、奉仕であれば奉仕しなさい、と聖書(ローマ12:6~8)も言っている。
 が、問題は、マルタが、「気を使っている」(ギリシャ語のソルバゾー。意味は、「心をかき乱している」)ことだ。それに対してマリヤは、心を一つにして主の御言葉に聞き入っていた。どちらが良いことか。つまり、比べられているのは、御言葉か奉仕か、ではない。心をかき乱すか、平安(心を一つにする)かなのだ。マリヤは、その良い方を選んだ。


 だが、主はマルタに、「あなたもそうしなさい」とは言わなかった。直前に出て来る「良きサマリヤ人のたとえ」では、『あなたも行って同じようにしなさい』と言われたのに、マルタに言われたのは、『彼女からそれを取り上げてはいけません』だ。


 さて、「どうしても必要なことは一つ」について再確認しよう。それは、他のものは要らないという意味ではない。むしろ今の時代、無いと困るものが沢山ある。携帯しかり、パソコンしかりだ。しかし、ヨハネは、「世にあるもの(肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢)などを愛してはいけない」と言う。それらを愛し求め過ぎる故に、いさかいが生じる、それが現実だ。確かに、お金も、必要だが、そのせいで心が壊れるなら意味がない。つまり、どうしても必要なもの、それは、心の平和なのだ。それが無いから、人は死ぬ。


 マルタの心はかき乱れて、怒り、不平、不満、苛立ちが心に渦巻いていた。心に平和がなかったのだ。しかし主イエスの言葉に聞き入るマリヤの心には、恐れも不安も悩みもなく、平和が満ちていた。その「心の平和」さえあれば、どのような境遇でも生きて行ける。それこそが、どうしても必要なことなのだ。
 マリヤは、それを手に入れることを選んだ。そして主イエスは、『それを取り上げてはいけない』と言われた。誰が、取り上げようとするのだろう。それは、時には、自分自身ではないだろうか。聖書を読むのを、祈るのを、教会に行くのを、やめてしまうことによって
 どうしても必要な「心の平和」を得る為のたった一つのこと、それを自分から取り上げてはならない。

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