預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

決して誓わないことを誓います! あれ?(ヨナ1:17~2:10)

1:17 主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。
2:1 ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って、
2:2 言った。「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。
2:3 あなたは私を海の真中の深みに投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。
2:4 私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。』と。
2:5 水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。
2:6 私は山々の根元まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。
2:7 私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。
2:8 むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。
2:9 しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」
2:10 主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。



 神から逃れようとしたヨナは、結局、大きな魚(クジラ?)の胃の中に3日3晩、飲み込まれたままとなった。4日目に出て来たら、胃液で皮膚は溶けて真っ白に……となっていそうなものだが、それは免れた。「それにしても、神から逃げると酷い目にあうものだ」という教訓として扱われやすいが、真実は違う


 まずヨナは、自ら海に飛び込んだのではなく、捕えられて投げ込まれた(1:12)。そのとき嵐はやんだ(1:15)が(おそらく縛られていたはずなので)海底まで沈んで海藻に絡まる(2:5)。その時点で溺れ死にかけていたのだ。そのとき祈ったら神は答えてくれて、魚に飲み込ませてくれたのである。つまり、魚に飲み込まれたというのは逃げた「罰」ではなく「救い」なのである。だから溶けなかったのだ


 罰は、溺死しそうになったこと、だ。神に背いた報いだ。本来、そこで死ぬはずだった。しかし神は救った。そう、これ(神に背いて死ぬべき者が救われた)はキリストによる救い(福音)の預言なのである。決して、ヨナが3日3晩闇の中にいたことがキリストのモデルなのではない。そもそも主が墓に葬られたのは2日2晩だ。復活は「3日目の朝」なのであるから。


 とにかくヨナは神に背いて死ぬ者となった。が、そこで「主を思い出した」(2:7)。神に立ち返ったのだ。それが救いのポイントである。そして、それは異邦人だけでなく、イスラエル人にも必要なことなのであり、立ち返らないなら、イスラエルであっても滅びるのである。


 悔い改めたヨナは「誓いを果たします」と言った。神に仕える者しての誓い(これからは神にのみ従います)だ神はそれを受け入れた


 キリスト教では「誓ってはならない」と教えられるが、実は、誓いは、〇であり、×ではないのだ。主イエスが言われたのは「誓いは果たせ」という趣旨であり、誓いは禁止ではないパウロ達も誓願を立てた(使徒18:18、21:23)し、誰より、神ご自身がアブラハムに対し誓いを立てた。だから私達も最初の誓いを果たすべきなのである。神に仕える者となる(洗礼の)ときの「これからは神にのみ従います」という誓いだ(Ⅰペテロ3:21)。そして最後まで真のキリストの教えに留まり続けよう。そうすれば、救いは主から来る(2:9)。

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