預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

毛皮を肯定するわけではないけれど…(Ⅱコリント5:1~4)

5:1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
5:3 それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
5:4 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。



 イスラエルが約束の地へと向かう旅の途上、幕屋(テント)で暮したように、私達の魂も、天国へと向かう旅の途中である地上では、「体」という幕屋の中での仮住まいである。


 仮住まいには当然、不都合があるし、いつかはそこを出なければならないときが来る。すなわちだ。しかし私達は、神の下さる建物(新しい体、復活の体)があることを知っているし、そこに入れば安心だ。


 ただ、それでも決して、この体を脱ぎたいのではない(死にたいのではない)、『かえって天からの住まいを着たい』とパウロは言う。その結果、『死ぬべきものが命にのまれてしまう』のだと。これは、どう理解すべきだろうか。


 例えば、寒い冬にTシャツ1枚ではつらい。役に立たないと言ってもいい。だからと言って、Tシャツを脱ぎたいか。いや、むしろ、着たいのだ。できれば、Tシャツの上から毛皮のコートにすっぽりと包まれてしまいたい。そうすれば、もはや、Tシャツの欠点は無意味だ。むしろ1枚多い分温かい。これが、『天からの住まいを着る死ぬべきものが命にのまれてしまう』ということに近いと言えるだろう。


 それでは、今の幕屋(体)の上から、更にオーバーコートのように「天からの住まい」を着るためにはどうすればいいのか。


 それは、具体的には、「神の守り、安心、平安、恵み…」、すなわち「神への信頼」を身に付けることである。これに包まれれば、どんな荒野も、寒い冬も乗り越えられる。最強のヨロイ・最高のコートだ。


 それを可能とするのが聖霊である。御霊の働きによって私達は、主と同じかたちに姿を変えられて行くまだ地上での幕屋を脱いでいないにもかかわらず、復活の主と同じ天からの住まい(新しい体)を着たかのように希望と喜び、感謝に満たされてゆくのだ。『死ぬべきものが命にのまれてしまう』のである。

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