預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇31

 悲痛な訴えと信仰の告白が交錯する、複雑な詩である。何があったのかダビデは極度の苦しみの中で、「神に見捨てられた」と不信仰になったのだとも言う。しかし彼は、そこから立ち直り、信仰による勝利の確信を持つに至る。不安と恐れの入り混じる中で、どうすれば勝利の確信が持てるのか。その秘訣は何か。
 まずは、主への信頼だ。当たり前の事ではあるが、これが一番難しいのかもしれない。出エジプトしたあと、イスラエルは、自分達を救い出してくれた主なる神を信頼し切れないで、偶像を作り、「我らの神よ」とすがった。神が自分達を救ってくれたと知っていながら、その神を「我が神」としなかったのだ。決して、偶像のほうが信頼出来るという訳ではなかった。ただ、自分で作り、自分で選んだのだ。
 どうせ信頼するなら、信頼に足るお方を選ぶべきである。「偶像は虚しい」と聖書は言う。むしろ、神以外のものは全て虚しいとも言える。何故なら、全てものは崩れ去るからだ。人間が頼りにするもの(自分自身、健康、命、お金、会社、建物、地球……)は、いつまでも残るものではない。しかし真の神は、永遠であり、命の源である。ゆえに『私の時は、御手の中にあります』とダビデは言う。命は神の手の中にある。そして神は、魂を地獄に落とす権威を持つお方だ。敵に回したらこれほど怖い存在はない。しかし、信頼し従うなら神ほど頼りになるお方はいない。だからダビデは言う。『私のたましいを御手にゆだねます』と。これこそ神への信頼、その極致である。主も十字架で同じ言葉を語り、息を引き取られた。が、神が甦らされた。
 人間にとって、魂は守るべき最後の陣地だと言える。それを失ったら、そのあとは無いのだから。そこを守る「最後の砦」、それこそ主なる神である。真実な神は、必ず信じる者の魂を守って下さる。だから、魂を委ねることが出来るのである。主の大きな慈しみは、主を砦とし、主に身を避ける者の為に備えられている。だから「全てを委ねて主の慈しみを待ち望め。それによって心を強くせよ」と、この詩は締め括る。私達も「主こそ我が神、わが砦」と、雄々しく告白しよう。そして、主の慈しみと憐れみを待ち望もう。

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