預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇30

 致命的な危機からの脱出と回復、それが、この詩の内容であるのだが、どんな危機があり、どのように脱出したのか。ダビデは「私を見殺しにして神様に何の益がありますか。あなたを賛美出来なくなってもいいんですか」と、駆け引きをするかのように訴えた。それが功を奏したのか「神は、嘆きを踊りに変えてくださいました」とダビデは言う。では、そもそもどんな危機があったのか。そこで3節だ。ダビデの魂は地獄には落ちず、よみから引き上げられた、と言う。「よみ」とは、死人の魂が一旦とどまる場所である。すると、ダビデは一度死んで、よみがえったということか。そんな話は聞いたことがない。聖書のどこにもない。よみにまで下って、よみがえられたのはキリストだ。そう、詩篇16:10が、そうであったように、この詩(1~3節)も、キリストを預言的に歌っているということだろう。そうであってこそ、4節『聖なる御名に感謝せよ』の意味が大きなものとなる。
 ここでの「御名」は、ヘブル語の「ゼーケル」であり、「記念する、覚える」という意味だ。神の聖なる「御名」は、聖4文字と言われるYHWH(に相当するへブル文字)であったはずだが……「記念する」それが神の御名とは?
 記念と言えば、すぐに思いつくのは「出エジプト」だ。その記念として「過ぎ越しの祭り」が制定された。神の救いの「記念」である。その「記念」そのものが、神の「御名」となっているのである。そして、その「過ぎ越し」は「キリストの十字架による救い」の予表である。その神の救いの「記念」、すなわち「イエスがキリスト」、それが神の御名となっているという訳である(ヨハネ17:3、11参照)。
 だから『聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる(記念)に感謝せよ』と言う。神の民が主を崇める、それが神の益、喜びだからだ。ダビデも私達も、神を賛美するようになる為に救われた。十字架による救いの記念(イエスがキリスト!)を感謝し賛美しよう。もし致命的な危機が来たとしても、脱出させて頂けるように、今、主により頼み、主を賛美し続ける者であり続けよう。そうすれば主は、嘆きを踊りに変えて下さる。

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