預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

何を宣べ伝えているのか(ピリピ1:12~18)

1:12 さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。
1:13 私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、
1:14 また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。
1:15 人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。
1:16 一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、
1:17 他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。
1:18 すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。



 パウロは、4度、合計4年に及ぶ投獄を経験した。教会にとっては大きな損失であり、痛手であるはずだ。迫害する側も当然、それを狙ってのことである。ところが、それが『かえって福音を前進させることになったというのである。これは驚きの大逆転だ。キリストの復活にも通じる大勝利である。こんな素晴らしいことを知らないでいてほしくない、『知ってもらいたい』とパウロは言う。


 一体、教会に何が起きたのか。それは、『確信』だ。パウロの命がけの伝道、何をも恐れぬその姿を見て、クリスチャン達は、「それほどに福音は素晴らしんだ。福音は恥ではないのだ」というパウロのメッセージを受け取ったのである。「たとえ死んでも大丈夫、天国に行ける。大きな報いがある」……その確信が与えられ、恐れることなく益々大胆に伝道したのである。 


 ただ、中には、不純な動機(妬み、党派心)で伝道する者もいた。パウロの投獄を「チャンス」と捉え、その間に自分達の派閥を大きくしようと考えたのだ。勿論、教会が大きくなることは喜ばしい。しかし、不純な動機での伝道は『私を苦しめる』とパウロは言うのである。


 それでも、もしキリストが宣べ伝えられているのなら、そのことを喜ぶ、とパウロは言う。それは「見せかけでもいい」と言っているのではない。あくまでも、見せかけの伝道は、パウロにとって苦しみなのであるパウロが喜ぶのは、ただ「キリストが宣べ伝えられる」こと、その一点だ


 パウロは、その為に命をかけた。それによって教会には「福音は素晴らしい。永遠の命・天国に優るものはない」という確信が与えられた。その確信によって教会は迫害に勝った。そして、迫害していたローマ帝国は、のちにキリスト教国家に変わった。まさに、キリストの復活のような逆転勝利だ。


 イエス・キリストに優るものはない。この確信を持つことが私達を強くするその確信こそが、あらゆる問題に打ち勝ち、世に勝つ力なのである。このことをこそ宣べ伝える、それが「キリストを宣べ伝える」ことだと言える。

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