預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

教会、やべえ(黙示録3:19~22)

3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
3:22 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。



 親が子供にすると同じように、神は、ご自分の子(神の子・クリスチャン)を叱り、懲らしめる。それは、ありがたいことだ。


 ただし、人間の場合は、ある一定の『短い期間』だけ、そうするのであるが、神はそうではない。何故なら、人間はやがて老いて、子供の力の方が親より上回るようになるのだが、神と人間の立場は、そのように逆転することはないからだ。神は、いつまでも変わることなく、力強く、聖いお方である。


 ゆえに、神は、私達教会に対して、今も、ご自分の聖さに与らせるために『熱心になって悔い改めなさい』と迫る。そのような「お叱り・懲らしめ」を受けないとすれば、それは愛されていないのであると聖書は言う。(ヘブル12:5~10参照)


 確かに、「どうでもいい存在」なら放って置くだろう。しかし神は、教会を放って置かない。つまり、それほどに大切にしてくれている、ということだ。


 真実な愛には、厳しさが伴う。過保護にすることは、愛ではない。神も、神の子供達に対して、本気で人生をやり直しさせる為に、悔い改めを迫る悔い改めなくして赦しはない。それが「愛」だ。


 それに対して私達神の子供は、「心の戸を開ける」ことが必要だ。ノックするのは神だが、開けるのは人間の仕事なのである。
これはよく、伝道説教などで語られる。心を開けば神が入ってくれる、と。確かに。しかし、ここで心の戸をノックされているのは、驚くべきことに、クリスチャンなのだ。主は、これを教会に語っておられるのだから。つまり、教会・クリスチャンの心からキリストが追い出されている、そんな状況を示しているのである。そして主は「私を中に入れてくれ!」「締め出さないでくれ」と訴えておられるのである!





 これは一つの「信仰のパターン」である。
 例えば、神は与える。全ては神の恵みだ。しかし、人間には「求める」という仕事があるつまり「祈りなさい」ということだ
 また、『来なさい』と神は招く。招かれた私達は、「主の元に行く」、それがなすべきことだ。
 そのように、私達は、主の呼びかけに対して応答する必要があるのだ。主が何度も言われた、『耳のある者は聞きなさい』というのは、そういうことでもある。そして私達が、応答して、心の戸を開くなら、主イエスの愛と恵み、感謝と喜びを味わうことができる。まさに『神の国は心の中に』が実現するのだ。


 今、神は、あなたに何を迫っておられるだろうか。悔い改め? 熱心になること?
 一人一人が聞いている「ノックの音」に応答して心の戸を開こう。主の迫りを受け入れて従おう。そうすれば豊かな恵みが溢れてくる。

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