預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇32

 罪を赦された人は幸いである。だから悔い改めなさい、という内容の(比較的シンプルな)詩である。が、幾つか引っかかるところもありはする。まず『心の直ぐな人』や、『正しい者たち』、『心に欺きのないその人』という表現だ。それは「悔い改めて罪を赦して頂いた人達」を指すのは間違いはない。つまり、神を信じ従う人、それが『心の直ぐな人』だというのである。すると、クリスチャンは皆、心が真っ直ぐだ(嘘をついたことがない)ということになるが、本当にそうだろうか。だとしたら、嘘をついたことのある人、ひねくれた心の人は、「私はクリスチャン失格」と、苦しむだろう。だから『心に欺きのない人』とは、どのような人かを理解する必要がある。
 改めて「悔い改め」。それは率先して行いたいと思うようなことではない。むしろ、避けたいと感じるものだと言える。謝ることさえ、素直には出来なかったりする。ましてや、自分の罪を告白する、というのはハードルが高い。だからダビデも『黙っていた時』があった(神の前に罪を隠していた、悔い改めなかった)と言う。そして、その時は苦しかった、と。何故なら、神は全てをご存じだからだ。隠し通せるはずがない。加えて、聖霊による悔い改めへの促しを受ける。ついにダビデは、耐え切れなくなり、罪を告白した。すると、赦してもらえた。だから、その人は幸い、と言うのである。そういう訳で、心に欺きのない幸いな人とは誰か、それは「私は罪人だ」と認めた人なのである。それが真実だからであり、そこに欺きはないのだから。
 それゆえ、神にお会いできる内に悔い改めなさい、と勧める。そうすれば神が隠れ場となって下さり、守って下さる。そのように、主に信頼するなら『恵みが、その人を取り囲む』と、この詩は言うのである。そして、その主の守り、恵み、赦し、永遠の命を『喜び、楽しめ』と。そう、信仰は、楽しむものであって、苦行のようなものではない。神の守りと恵みを、日々体験して、楽しみ喜ぼう。そして、信仰は、人生の一定期間だけ「やってみる」というような類のものでもない。信仰は、おしまいまで、貫くものだ。私達は、命の限り、主に信頼しよう。

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