預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇33:1~8

 賛美は心の直ぐな人達(自らを罪人と認めて、悔い改め、赦され、救われた人)に相応しい。それは、お似合いであるというような意味ではない。救われた者こそが賛美するべき、ということである。いやむしろ、救われた者が賛美しないでどうするのか。何故なら、賛美は礼拝の中心だからだ。例えば、説教を聴くことも、神の言葉を(アーメン、その通りです! ハレルヤ! と)崇める行為なのである。献金も、命の次に大事(と言えるような)お金を捧げる価値が神にはある、ということを表明しているのであって、あらゆる方法で神を賛美する、それが礼拝なのである。神はそれ程に偉大であるということだ。ちょっとした音楽で表せる程、神はちっぽけなお方ではない。たとえ音の万華鏡のように煌めく音色をもってしても表わし切れない、それ程に神は偉大だということを知る必要がある。
 そこで、この詩篇は、神は天地の造り主であるということを宣言し、『世界に住む者よ。みな、主の前におののけ』と言う。天地の造り主には不可能はないのだから。例えば、漫画家は自らの描く世界において思うままに何でも出来る。たとえ主人公が死んでも生き返らせることが出来る。不可能がないのだ。ただし、それはあくまでも架空の世界においてであるが。その点、この世界は架空ではない。現実のこの世界の造り主は、まさに神なのだ。そして、神は自分の造った世界において何でも出来る。罪人を赦し、救うことが出来るのである。
 ゆえに、救われた者に対して「賛美せよ」と聖書は言う。それも『新しい歌を主に向かって歌え』と。新しい歌とは? それは、かつては知らなかった(救いの喜びの)歌だ。救われた喜びを歌う歌は全て(救われたからこそ初めて歌える)『新しい歌』なのである。
 私達は、自らが罪人であったことを認める。なのに、救われた。その喜びを忘れないようにしよう。そして、神の偉大さを知って、賛美しつつ、神と共に歩もう。それこそが『正義と公正』だ。神は、それを愛される。アダムとエバが罪を犯す前(主と共に歩んでいた時)のエデンの園がそうであったように、今も、主と共に歩むなら『地は主の恵みに満ち』るのである。

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