忠実 ≠ 盲従(マタイ25章)
24章は、しもべ頭(牧師)について語られていたが、続く25章は、普通のしもべ(クリスチャン一人一人)についてである。まずは、10人の娘のたとえで、「その時(再臨)が思いのほか遅くなっても備えておくべきことの重要さ」を教えている。
25:13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。
2つ目は、タラントのたとえ。
『役に立たぬ』と叱責されたしもべは、外の暗闇に追い出され、泣いて歯ぎしりする、というのだが、24章の「悪いしもべ頭」と同じ報いであることから、最悪、地獄に落ちるということだろう。
つまり、「役に立たないしもべ」は、主のしもべの地位を剥奪されるということになる。
だからと言って「一生懸命働かないと滅びる」「有能なクリスチャンにならなければ滅びる」と考えるべきではない。
あくまでも「神のしもべ」(クリスチャン)であるなら、出来が悪かろうが、怠け者であろうが、それで地獄に落ちることはない。主イエスを信じる(その純粋な信仰を保っているなら)なら、それだけで誰でも救われるのだから。
問題は、何をもって『役に立たない、悪い』と言われているのか(その結果、主のしもべの地位を剥奪されるのか)だ。
確かに、人間の能力には差がある。
しかし、比較的能力の低いしもべも主人から同じくほめられている。
25:20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
ほめられた理由は「忠実さ」だ。
と言っても、「ただ単に言われた通りにやればいい」ということではない。彼らは、主人の心を汲み取って、言われてないこと(商売)を実行したのだ。そう、忠実とは、言わば「神の御心を知る」ことと「神への信頼」だ。それが喜ばれたのだ。だから、もし仮に、彼らが商売に失敗して、預かった金を失ったとしても、主人は責めはしなかっただろう。しかし、叱られたしもべは、商売をしようともせず、主人を酷い方だと考えていた。
25:24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
25:25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
それは、神への信頼が無いことを意味すると言える。
そこが、『役に立たない。悪い』と言われている部分なのだ。
神を信頼しない者が、神の国に入ることは無いだろう。
私達は、主の御心を汲み取り、主は良いお方だという信仰(神への信頼)を持っているかどうか。用心していよう。