預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

続・証人に、なっとく?(ヨハネ20:26~29)

20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」



 復活の主に出会った後も、弟子達は、恐れ隠れていた。特にトマスは後世「疑いのトマス」と呼ばれるほどに、証拠を求めた


 しかし、決してトマスだけが特別に疑い深かったのではない他の弟子達も皆、自分で復活の主を見て、触って、証拠を得て、納得して、ようやく信じたのである。
 そして主も、トマスに「証拠なんか無用だ」とは言わず、むしろ、「触って、指を差し入れなさい」と言われた。納得させて信じさせようとされたのだ


 ただ問題は、主は、そうやって見せて、触らせて、信じさせておきながら、『見たから信じたのか』と、逆に、証拠や納得を否定するかのように言われたことだ。
 『見ずに信じる者は幸い』とは、やはり「証拠がなくても信じろ」「鵜呑みにせよ」ということか。


 いや、少なくとも確かなのは、主は、『数多くの確かな証拠を示された』のであり、積極的に、証拠によって信じさせようとされたということだ。であるならば余計に、である。何故、『見ずに信じる者は幸い』だと言われるのか。


 そのヒントは、ルカ16章にある。金持ちとラザロの話だが、その結論は、「神の裁きがあるということは聖書が教えている。それが証拠だ。それを信じろ」ということである。
 金持ちは、聖書を信じていなかった。その結果、自分で神の裁きを見て、ようやく信じた。が、手遅れだった。この場合、見てから信じたのでは遅いのだ


 つまり、いつか「終わりの時」が来る、「天国と地獄(神の裁き)がある」ことを聖書は教えているのに、「それ」を見たら信じる、ということは、その時は、自分が地獄に居て「それ」を見ているのだから、もう遅い。「死後どうなるのか」を自分で見る前(死ぬ前)に聖書を信じなさいということである。
 その人は幸いなのだ。だから主は、聖書を信じさせるために証拠を示されたのだ(マルコ16:20参照)。


 信仰とは、自分の信じたいことを信じるのではない。信じ難いようなことでも、神の言葉が約束しているなら信じる、それが信仰であり、アブラハムは、その証人、「信仰の父」だ。
 彼は、神の約束を握りしめ、それに依り頼んだ。だから私達も、御言葉が何を約束しているかを追求し、その上で、御言葉の約束に信頼する、そんな信仰の証人となろう。

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