預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

第3の道(マルコ14:41~49)

14:41 イエスは三度目に来て、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
14:42 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」
14:43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現われた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。
14:44 イエスを裏切る者は、彼らと前もって次のような合図を決めておいた。「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。」
14:45 それで、彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、「先生。」と言って、口づけした。
14:46 すると人々は、イエスに手をかけて捕えた。
14:47 そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。
14:48 イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕えに来たのですか。
14:49 わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」



 「私の願いではなく、御心の通りを……」とゲツセマネで祈られた主は、捕えられる際にも、「天の軍勢を呼び寄せて応戦」などなさらず、聖書が成就するため、と言われ、父の御心を受け入れられた。


 だがペテロは、主の御心に反して、(「そんなことがあってはなりません」などという)自分の勝手な思いで剣をもって立ち向かい、マルコスの耳を切り落とした。主は、その耳を治してあげられた。
 驚くのは、その癒しの御業(神の全能の力)を目撃していた群衆と兵士達が、その後なおも主に敵対したことである。奇跡を見せてくれたら信じる」という人間の言葉は、あてにならない。


 一方、弟子達は、どうか。
 主が『聖書の言葉が実現するため』と言って、父の御心のままに捕らえられていく姿を見て、逃げた武装した群衆が来た時には、逃げるどころか立ち向かって行ったのにだ。弟子達も、実にあてにならない。


 もし仮に主が、「聖書は間違い」「私は救い主ではない」と言ったのならば、それなら弟子達もあきれるだろうし、見捨てて逃げるのも当然だ。だが主が言われたのは「神の御心は成る」ということだ。なのに、である


 奇跡を見ても主に敵対した人々。聖書が実現すると聞いて逃げた弟子達。この「」と「」は、何を現わすのか。


 それは、神の御心を拒む人間は、そのどちらかになってしまう、そして余計な苦しみを味わう、ということだ。例えば、御言葉の促しを素直に受け入れない時、従うべきか従わざるべきか、と心の中に戦いが起こり葛藤する。また、信じるなら救われるのに、拒む人は「死」という問題から目をそらし、恐れから逃げる日々となる。そのように、神の御心を受け入れない限りは、どうしても争うか逃げるかになってしまうのだ


 しかし、そのどちらでもない、第3の道がある。それは勿論、御心を受け入れることだ。そうすれば、「」でも「」でもなく、「」となる。それこそがキリストの復活に現わされているのだ。


 主は言われた。『自分を捨てて、自分の十字架を負って、そして私について来なさい』と。自分の勝手な思いを捨てて、神の御心を受け入れて従いなさいということだ。そうすれば、敗北ではない、逃げて苦しむのでもない喜びと勝利と感謝の人生を歩むことができる

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