預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇33:18~19

 「主を恐れる者」とは、この世の財力、数の力などに拠り頼まず、神にのみ拠り頼む者である。しかし、全部、神任せでいいという訳ではない。自分の果たすべき責任もあるし、パウロも、自分には人一倍、人間的なものに頼るところがある(エリートのパリサイ人で、その熱心さが自分の頼る力だ)と言っている。ただし、キリストに比べればクズ同様だが、とは言うが。要は、人間的なものに頼っても救われない(それが「主を恐れる」ということ)と聖書は言うのである。
 さて、主は人の心を調べる。その『主の目は、主を恐れる者に注がれる』と言う。主を恐れていても、なおも疑いの目が注がれるのだろうか。いや、「死から救い、生き永らえさせる為に」だと19節に続く。
 勿論、神は全能であるから、病を癒し、助けることは出来る。しかし神は「人は一度死ぬ、そう定めた」お方である。その神の言葉は絶対、それが私達の信条だ。そして神は真実であるがゆえ、御自分の定めたことを否定することが出来ないのである。確かに「信仰は常識を超える」という一面はある。だが「聖書が示す常識・事実」にまで目をつむってはいけない。人は死ぬ。その神の言葉の前にへりくだる(受け入れ、認める)ことが必要だ。ただ、その上で「キリストを信じる者は死んでも生きる」その神の計画だけが成る、と信じるべきだと、この詩は言うのである。ゆえに、よもや「天国に行くより、一日でも地上で長生きするほうが良い」などというような心を持ってはいないか、を神は調べるのだ。罰するためではなく、救うために。
 19節は、ヨセフ物語である。そしてヨセフはキリストの予型である。つまり、これは「キリストによる魂の救い」のことを言っているのだ。その恵みを待ち望む者に主の目は注がれる。疑いの目ではない。慈愛の目だ。神の愛(人の救い)を待ち望む者に、それは注がれる。つまり「魂の救い」という恵みが注がれるのである。その「神の計画」だけが成る。たとえ、この世の命を失っても、永遠の命を生きる。病気が治らなくても、新しい体が与えられる。その慈しみの業(十字架)を成し遂げるために、主は、自らエルサレムに入って行かれた。
 私達は、慈しみ深い神を崇め、なおも、神の慈しみを待ち望もう。

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