預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇11

 言葉(音)は、空気の振動によって耳に届く。それが「聞く」ということだが、その聞いた言葉が心を動かす。時には、それが更に心の奥底に深く刺さる場合がある。それを「魂に届く」と言うのだろう。
 さて、「誰か」がダビデの魂に言う。『鳥のように、お前達の山に飛んで行け』と。それは、鳥のように「何かに身を潜めて、こそこそ逃げ隠れていろ」という侮辱の言葉である。そんな侮辱の言葉が魂に届いたなら、打ちのめされてしまう。更に「誰か」は言う。真っ直ぐに歩む者を悪者は暗闇から狙ってる、と。これはダビデに対してに限らず、世の常とも言えるものであり、同時に、全ての信仰者が置かれている状況でもある。つまり、光の子を悪魔は陰で狙ってる、ということだ。そう理解することに、この詩の聖書としての意味がある。
 その「敵」の攻撃によって『拠り所が壊されたら正しい者に何ができよう』と「誰か」は言う。クリスチャンの拠り所、それは聖書である。ゆえに、御言葉への信頼、純粋な御言葉の教え、その土台が崩れたら、総崩れとなる。だから悪魔は、そこを揺さぶる。つつく。「そうなったら信仰者も終わりだな」と「誰か」は、そのような攻撃を受けているダビデを見ながら言うのだ。つまり、「誰か」とは、直接的な敵ではなく、第三者(ダビデの周辺の人物)なのだ。
 しかし、主は人を調べる、とダビデは言う。敵の作戦は分かり切っている。土台を崩すことだ。ただ、誰がそんな作戦を立てているのか(誰が主に逆らう者なのか)を調べる、というのだ。ヨハネの手紙によれば『あなた方を(異端の教えで)惑わそうとする人達』である。主は、そのような悪には、相応しい報いを与える。しかし正しい者には御顔を現わして下さるのである。ゆえにダビデは『主に私は身を避ける』と言う。打ちのめされるほどの魂への攻撃から守られるために。
 例えば、急な雨の時など、身を避ける所がある、というのは幸いなことである。しかし、必ずしも、そのような場所があるとは限らない。それでも私達には完全、最高の避け所がある。神の国だ。全てから守られ、喜びと感謝に満ちる場所である。それを与えて下さる主に身を避けることが出来る、それが幸いである。

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