預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇12

 世の中で、卑しいことが崇められているときには、悪者が至る所で横行する、とダビデは言う。それはそうだろう。そうなるに違いない。残念ながら本当のことだ。が、アーメン! とは言いにくい。
 あえて、そんな嘆きの言葉で詩を結ぶのは何故か。この詩は、形式的には、「悪者が横行する」という結びの句に対して、「聖徒はあとを絶ち、誠実な人は消え去りました」と冒頭にあるように「対」になっている。とにかく、それもこれも、人々が卑しいことを崇めたからである。そんなことにならないようにするべきだ、と誰もが思うだろう。しかし、残念ながら今も世の中では卑しいことが崇められている。心を育むより、出世することのほうが崇められる。人に仕えるより、地位と権力で支配する人のほうが崇められる。信仰の世界においても、「真理なんかどうでもいい」と言わんばかりに、異端やカルトが大手を振っている。
 『主よお救い下さい』とダビデは祈る。「真っ当な主張をする(本当のことを言う)人が消え去ってしまった」と嘆く。そればかりか、偽り者は言う。『われらはこの舌で勝つ』と。事実、その雄弁な舌によって偽りが信じ込まされている。ダビデが『主よ、立ち上がって下さい』と祈ったように、私達にも祈りが必要だ。それに応えて主は仰せられる。『今、私は立ち上がる。私は彼を、その求める救いに入れよう』と。このことからも分かるように、私達は、卑しいことをではなく、救いを求めるべきなのだ。聖なる神を、混じりけのない御言葉を、崇めるべきなのだ。悪が横行するのを止めるために。
 勿論、この世から悪が完全に消え去ることはないだろう。むしろ、ますます悪は栄える。そして、ついには裁きの時が来る。しかし、だからこそ、自分の人生の中にまで悪が横行することのないようにしなければならないのだ。世の風潮に流されて、卑しいことを崇めないようにしなければならないのである。
 聖書を否定するメッセージを、この世は流す。しかし、神を信じ、御言葉に従う者に、神は報いて下さる。「真理はどこに行ってしまったのか」と悩む人に、「自分には神が必要だ」という貧しい人に。

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