預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

あなたは聖くないけど、聖い!(ヘブル12:14)

12:14 すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。



 クリスチャンではあっても、世の中に怒りを感じることが無いわけではない。争うこともしばしばである。聖書は『全ての人との平和を追い求めなさい』と言うが、程遠い。ましてや、「聖め」など、ゴールも見えない。なのに聖書は『聖くなければ誰も主を見れない』と言うのだ。ということは、赦されたとはいえ、罪の性質の残る私達人間は、誰も主を見れない(天国に行けない)ということなのだろうか。


 確かに、聖くなければ主を見れない、というのは本当だ。聖書はウソは言わない。しかし、心配はいらない。私達は天国に行けば完全に聖められるのだから。そのとき、顔と顔を合わせて主を見るようになるのだ。では、何のために『聖められることを追い求めなさい』と聖書は言うのか。


 聖書は、「山上の垂訓」でも、非常に高い倫理的行動を要求している。もし、それらの教えが実行出来たのなら、それは素晴らしい。何事も、良いものは、無いより有るほうがいい。聖めも平和も、無いより有るほうが良いに決まっている。しかし、それは決して、必須条件ではない。天国に行くために最低限必要なことは、ただ一つ、イエスを救い主と信じ、悔い改めて、罪が赦されること、それだけである。聖人君子にならなければ天国に行けないということはない。十字架による罪の赦し、それさえあれば、天国に行けて、聖められて、主を見れるのだ。それ以外は、まあ、無くても大丈夫だ。


 ただし、快適な信仰生活の為には、それらはあったほうがいい。例えば、車。走りさえすれば、それで十分かもしれない。しかし、快適なドライブのためには、エアコンも、パワステも、ナビも、バックモニターもあったほうがいい。無かったらどこにも行けない、ということはないが、危険を避けるためには、あったほうがいいのだ。


 同じように信仰生活も、罪の赦しさえあれば、天国に行ける。しかし、幸いな人生のためには、「聖め」も「全ての人との平和」もあったほうがいい。そして主は、それを『求めなさい』と言われる。地上での旅路を楽しいものにするために、それが一つの理由だ。


 しかし、何より大切なことは、「聖め」とは、心が美しくなることではない。「聖」とは、「分離」という意味であり、偽りから離れることこそが「聖め」なのである。だから、「キリストを信じる・悔い改める=クリスチャンになる」ことが、すでに「聖め」なのだ。その「聖め」を追い求めるとは、すなわち、ますます偽りから離れることなのである。逆に言えば、偽りの中にとどまっていては、神を見ることは出来ないということだ。


 真実を求める、本当のキリストの弟子となろう。

×

非ログインユーザーとして返信する