預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇17

 神に心を調べられても何も見つからない、とダビデは言うが、それは本当か。彼は、それほどに完璧な人間だっただろうか。いや、不倫もしたし、その夫を騙して死に至らしめもした。どこが『無法者の道を避けた』と言うのか。事実、彼は自らの罪を認めて、それでも「あまり厳しく責めないで下さい」と詩篇6:1で、神の憐れみを求めているのだ。では何故、17篇では、一切の過ちを犯していないようなことを言うのか。果たして、この17篇のメッセージは何か。
 鍵は15節の『目覚める時』だ。それは、詩篇16:10や3:5などと同様、復活の時だと考えられる。その時、『正しい訴えで、御顔を仰ぎ見』るということは、「白い御座の裁き」を指すのであろう。世の終わりの後、全ての死人が神の前に引き出されて裁きを受ける。地獄か天国かが決められるのだ。そんな時に、神の御姿を見て『満ち足りる』のは誰か。それは、罪赦され義と認められた人、クリスチャンだ。
 勿論、クリスチャンとはいえ、突発的(偶発的)に罪を犯すことはあろう。ダビデも、しかりだ。しかし、悔い改めるなら、赦され聖められると聖書(Ⅰヨハネ1:9)は教えている。そして神は、その罪を2度と思い出さない、とも(イザヤ43:25、エレミヤ31:34)。それゆえダビデは『正しい訴えで、御顔を仰ぎ見』る、と言うのだ。「主よ、あなたは私を義と認めて下さいましたよね。私の心を調べても何も見つかりませんよね」……それがダビデの『正しい訴え』である。ゆえに、『目覚める時、神の御姿に満ち足りる』と言うのだ。
 私達も、この「正しい訴え」をすることが出来る。それが慰めだ。たとえ、自分はダメなクリスチャンだと思えても、弱さはあっても、キリストを信じているなら罪は赦されているのだ。
 信仰生活には霊的な戦いがある。悪魔は、何とかしてクリスチャンを地獄に引きずり落そうとして、律法主義や異端に誘い込もうとする。また、人生には悩みも苦しみも病もある。ダビデのように『主よ。聞いて下さい。耳に留めて下さい』と叫びたくなる時もあるかもしれない。しかし、最後には神の御姿(栄光)を見て『満ち足りる』時が来る。それは必ずだ。その時まで主に信頼して祈り続けよう。

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