預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇18 ①

 サウル王から命を狙われるという絶体絶命の危機に、ダビデは神に祈った。すると、その祈りが神に届いた(命が救われた)というのである。さすがは信仰者ダビデというところか。ところが、そのダビデでさえ、子供が助かるようにとの祈りは神に届かなかったのである。
 「神に届く祈り」と「届かない祈り」の違いは何か。少なくともダビデは、信仰深く、6日間も、断食して祈った。しかし、そうしさえすれば祈りが神に届く、というわけではなかったのだ。ペテロも、足のきかない人を癒したときに、「信仰深さによって癒したのではない」と断言している。あくまでも「イエスを信じる信仰のゆえ」なのだ。
 パウロは、福音を語っていた時、足のきかない人に目を留め、彼には「癒される信仰がある」のを見て取った。どんな信仰か。それはギリシャ語の『ソーゾー』という言葉が使われている通り「主イエスを信じれば『救われる』信仰」だ。何しろパウロの語る福音を聞いて信仰を持ったのだから。塚本訳では「足が直るに必要な信仰」となっている。どんな信仰か。勿論「真の神に信頼する信仰」である。それは決して特殊な信仰ではない。クリスチャンなら誰もが持っているはずの、当たり前の信仰なのだ。信仰深さゆえに癒されたのではない。
 では、長時間祈れば届くのか。しかし主は『祈ったことはすでに叶えられたと信じよ』と言われた。ルカ18:1も「いつまでもずっと一つのことを祈れ」という意味ではない。「いつでも、どんな時も」だ。更に主は『お願いする前に、父はあなた方の必要を知っている』と言われた。ならば、長時間の祈りや、断食の祈りは何のためか。何故『絶えず祈れ』と聖書は言うのか。それは、祈る「自分の心が変えられるため」である。自分の要求を押し通すのではなく、神の御心を受け入れることが出来るようになるためなのだ。主も、そのためにゲッセマネで3度も祈られた。ダビデも、子供が天国に行くこと(神の御心)を受け入れるために、6日間の断食祈祷が必要だったのだ。
 ダビデも病には勝てなかった。が、『主を呼び求める(祈る)と、私は、敵から救われる』と言う。それは、最終的には、地獄(に落とそうとする敵)から救われるということである。その祈りは神に届く。

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