預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇18 ②

 ダビデの祈りが神に届き、神は『天を押し曲げて降りて来られた』。それは、単にダビデを助けるためだけのことではない。『この主を呼び求めると、私は、敵から救われる』というダビデの言葉が、実は、人間の救いのことをも指している(ローマ10:13参照)のと同じだ。そう、まさしく神は、救いの道を開くために『天を押し曲げて降りて来られた』のである。それは、神の人類への「超自然的介入」だ。かつて「出エジプト」の時、紅海が真っ二つに割れたように、ヨシュアの時に太陽がほぼ1日動かなかったように、イザヤの時には、その太陽が後戻りしたように、森羅万象の掟を破って、神の御子が人となって地上に降りて来られたのだ。救い主が来た、ということは、それほどのことなのである。それゆえに、信じて救われるということは何よりも凄いことなのだ。
 さて、ダビデもサウルの魔の手から救われた。その理由は『主が私を喜びとされたから』と言う。これは、サウルを殺さずにおいた(Ⅰサムエル24:4~7)ことによる。「油注がれた方に手を下すことは出来ない」というダビデの判断が、主に喜ばれ、救われ、祝福されたというわけだ。ただし、「手を下す」とは「殺す」ということであり、「油注がれた方」とは「王・預言者・祭司」のことであるのだから、決して指導者を批判してはならない、という風に誤解してはならない。事実、ダビデはサウル王を殺しはしなかったが、痛烈に批判はしたのである。たとえ相手が王であれ、間違いは指摘し、正すべきなのだ。
 私達は、永遠の命を取り扱う聖書の言葉に対して、外科手術以上に、1ミリも狂うことなく、誠実に取り組むべきである。神は『全き者には、全くあられ、きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方』だとダビデは言う。御言葉に対し誠実であるなら、神も、その御言葉の約束を私達に誠実に成し遂げて下さる。キリストを信じる者は『死んでも生きる』との言葉の通り、永遠の命・天国へ入れて下さる。そして時には、超自然的介入とも言えるような、私達の思いを遥かに超えた(想像も出来ない)助けを与えて下さる。だから、完全な者にはなれないとしても、曲がった者にはならないようにしよう。

×

非ログインユーザーとして返信する