預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇18 ③

 表題にある通り、この詩はダビデの実体験(サウルの手から救われたこと)を歌っている。だが、それにしては、やや誇張されていると感じる。例えば『私は私を憎む者を滅ぼしました』だが、ダビデを憎んだサウルを、ダビデは殺さなかったのに、滅ぼしたとは言い過ぎだ。
 詩篇は讃美歌集であると同時に、預言書としての側面をも持つ。例えば、Ⅱサムエル7:12~16は、ソロモンのことを言っていると思えるが、実はキリストのことを預言しているのであるのと同じように、この詩篇も、そこかしこにキリストについての預言が重ね合わせられているのであり、それこそがダビデの体験としては大げさと感じる部分なのだ。だから『私は私を憎む者を滅ぼしました』は、キリストを憎む者(サタンと全ての敵対する者)を地獄に落とす、という預言だと理解すればいい。そして『油注がれた者』は、ずばりキリスト(メシア=油注がれた者)であり、ダビデと『そのすえ』は、霊的イスラエル(クリスチャン)だと理解できるのである。
 問題は41~42節の「主に叫んでも救われなかった人々」だ。それは直接的には、サウルをはじめとする「不信仰なユダヤ人」を指す。と同時に、最後の裁きの時に主の前から除かれる人々(マタイ7:21~23参照)だと考えられる。彼らは(サウルも)主に叫ぶことを知っているが、御心を行わないがゆえに退けられた。『だから』と主は、結論的に「岩の上に家を建てた賢い人」のたとえを語られた。主の言葉を聞いて行う人が「賢い人」なのだ、と。その人は嵐のような時も倒れない。そして『私を引き上げ、暴虐の者から私を救い出されます』とダビデは言う。それはまさに、キリストによる救いなのだ。それゆえ、生きておられる主を崇めよう、とダビデは言う。単に個人的な神の恵み(助け)を歌うのではなく、キリストによる救いを賛美している、それが詩篇なのだ。
 そして、この18篇は「神を賛美し、礼拝し、御言葉に従う道を歩め」と私達に語りかける。それこそが、ダビデのすえ(霊的イスラエル・クリスチャン)にとっての完全な道なのだと。そうすれば、とこしえに恵みが注がれる。地上の人生だけではない。永遠の命の恵みだ。

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