預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇20

 聖書は、神から人間(私)へのラブレターだと言われる。確かにそうだ。だが、聖書の言葉を何でもかんでも自分に当てはめていいというわけではない。例えば『主があなたの願いどおりにしてくださいますように』と聖書が私に語りかけているのだから、私の願いが何でも叶うはずだ、と考えてはならないのである。何故なら、御心に適う願いだけが叶うと聖書は教えているからだ。
 表題にある「ダビデの賛歌」は「ダビデのための賛歌」とも訳せる通り、他の誰かがダビデのために書いた、という場合もある。この20篇はそれだ。つまり、『苦難の日に、主があなたにお答えになりますように』という「あなた」は、「王様」のことなのだ。そして、その祈りの通りに、神はダビデを助け、勝利を与えたのである。だが、そうすると、ダビデの願い(バテ・シェバとの姦淫)が叶い、はかりごと(その夫ウリヤ殺害)が成し遂げられたのも、神がして下さったからか。いや、神はそれを、ダビデの罪として責めた。だから『主があなた(王)の願いどおりにしてください』という民の祈りは、実は、王の王キリストについての預言的な歌だったということなのである。
 父なる神は、いつも御子イエスの願い通りにされた。人間のために救いの道を開く、という願い(その為の十字架と復活というはかりごと)を遂げさせて下さったのだ。だから『今こそ私は知る』と、この詩を書いた神の民は言う。主の願い(はかりごと)に父なる神は天から答えてくれる、と。すなわち、信じる者は救われる、ということだ。私達もこの『主の御名を誇ろう』。誇る(ヘブル語の「ザーカル」)は覚えさせる、記録するの意味に使われる。つまり、救い主の名を人々に覚えさせよう、ということだ。信じる者は裁きの時にもまっすぐに立つことができる。だから「キリストこそ救い主!」と誇りをもって。
 そして『王に勝利をお与えください(9節脚注)』と民は祈る。王が勝利を取る、それは、民が平和に暮らせるということだからだ。私達を苦しめる様々な問題に対して、王である主が勝利されたなら、心の中は平和になる。「平和の君」と呼ばれる主の、その願い(はかりごと)を『遂げさせてくださいますように』と祈ろう。

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