預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇21

 20篇において、神の民は王の為に祈り歌った。その祈りに神が答えて下さったゆえ王は勝利を取れた。その感謝の歌、それが21篇だとされている。すなわち、これは王の王キリストの勝利の歌なのである。
 ただ8節以降は神の裁きが記されている。神を憎む敵共を一人残らず見つけ出し地獄の炎で焼く、と。それは未信者のことではない。未信者は、神を知らないだけ(それが「的外れ・罪」なのであるけれども)であって、知らないがゆえに憎みもしないのであるのだから。神を憎み敵対しているのはサタンとそのしもべ共だ。加えて『彼らのすえを滅ぼ』すと10節にあるが、『彼らのすえ』とは誰か。主の言葉によれば、律法学者・パリサイ人が『蛇ども、まむしのすえども』(マタイ23:33)と呼ばれている。彼らがサタン共と同罪に扱われる、その重い刑罰は何ゆえか。それは「人々から天国をさえぎり、入ろうとしている人をも入らせない」(マタイ23:13)からだ。自らが天国に入れないだけならまだしも、他の人をも天国に入らせない、それは非常に罪深いことだと言わざるを得ない。
 では、更に同じ10節の最後に出て来る『彼らの子孫』とは誰か。この場合の『彼ら』は誰を指すのか、それは「サタン共」ではなく「そのすえ」である律法学者達だ。律法学者達の子孫、つまり、今も生き残っている「律法主義者達」をも滅ぼすということだ。自分も入らず、人をも天国に入らせないのだから罪深い(それは異端も同罪だろう)。
 勿論、彼らが神に対して悪を企てても何も出来はしない。が、神の民に対してはそうではない。惑わし、足をすくい、倒すことが出来る。弟子達もある程度のダメージは受けた。しかし主は『信仰がなくならないように』祈って下さった。そして父なる神は『彼の心の願いをかなえ』(詩篇21:2)て下さった。だから、これはキリストの勝利の歌なのである。キリストの願い(主の御心)は必ず成就するのだ。神に信頼し従う者を神は守って下さる。そしてついには、その全能の力で、私達を栄光の体に変えて下さる。その偉大な御力を崇めよう、と詩は締め括られている。私達も、主の御力がどれ程偉大であるかを知ることが出来るように、主の御力の現れを求めよう。

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