預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇23

 主イエスが私の羊飼い。だから安心、安全、乏しいことがない。確かに。だが、たとえ死の陰の谷を歩くこと(絶体絶命というような状況)があっても恐れないと、私達は言えるだろうか。いや、高い所から落ちそうな時、恐怖を感じるのが普通ではないだろうか。そう、ここで聖書が言う『恐れない』のは『わざわいを』であって、死の陰の谷なんか怖くないと言っているのではないのである。つまり「死」というものに対して、多少の不安や恐れを感じたとしても、死後どうなるか(消滅するのか、地獄に落ちるのかという、そのような「わざわい」)を恐れない、それが神の羊・クリスチャンだということである。何故なら、死後は天国と決まっている(主が共におられる)からだ。
 そして、良い羊飼いは、その鞭と杖で獣を追い払ってくれる。だから、鞭と杖(神の「純粋な信仰を守れ」という厳しさ)が『私の慰め』なのである。事実、クリスチャンの敵である悪魔と異端の教え(私達を神から引き離そうとするもの)は常に私達を取り巻いている。しかし恐れることはない。悪霊に怯えて臨戦体制を取る必要もない。その敵の前でも主は私達に「食事」という楽しみを与えてくれる。つまり、ごく普通に人生を楽しみ喜ばせて下さるということだ。
 次に『いつくしみと恵みとが、私を追って来る』というのだが、すると「私」は逃げているのだろうか? 神から? それは良くない。「もっと恵みが追いかけて来るために、もっと逃げよう」と言うのは「恵みが増し加わるために、もっと罪を犯そう」と言うのと同じだ。それは有り得ない、新しい歩みをするべきだ、とパウロは断言する(ローマ6章)。新しい歩み、それは「主と共に生きる」ということだ。救われる前とは逆の歩み、それが「いつまでも主の家に住まう」ということ、そうである限りは、恵みが……ということなのである。
 私達は、神の子供。同時に、神の羊、神のしもべ、であり続けよう。それが「いつまでも神の家に住まう」ことが出来る者なのだから。そうすれば、いつくしみと恵みとが追い迫ってくる。隙間もないほどに、恵みのがんじがらめだ。そのようにして、いつまでも主の家に住む幸いを喜ぶ1年としよう。

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