預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇25

 アルファベット詩は、その内容を覚えやすくさせるという効果がある。では、この詩で何を覚えさせたいというのだろう。特徴的なのは「小道」という言葉だ。詩篇に4回ある内の2回がここに出てくる。
 主の小道とは、信仰者が歩むべき道のことだ。つまり「どのように生きるべきか」ということであるが「それを教えて下さい」とダビデは言うのである。何故なら、敵が襲い掛かってくるからだ。クリスチャンにとっての敵、それは、私達を神から引き離そうと(真理から遠ざけ、迷わそうと)するものである。だから「真理の内に私を導いて」とダビデは請う。真理の中を歩む、それが主の小道なのだ。
 さて、6~7節でダビデは『覚えていてください』と主に訴える。それは、ダビデと神との間に何らかの事実が存在している、ということに基づいている。まずは、主の『憐れみと恵み』だ。それはいつも変わらずに、あったのだ。もし神が単に正しく聖いだけのお方なら、罪を犯した人間を即刻滅ぼしていただろう。しかし、神は憐れみ深いお方でもある。それゆえに救いの計画をとこしえの昔から立てて下さった。その事実をダビデは確認しているのである。もう一つは『私を覚えていてください』だが、それも「罪人だった私のことは忘れて」『あなたの恵みによって』覚えて、というわけだから、それは「主の恵みによって罪赦されている私」という事実の確認なのだ。
 主は『罪人に道を教えられる』。神を信じ従って生きる道(主の小道)へと。神に信頼して生きる者にとって、その小道は全て『恵みとまこと』である。が、16~20節ではまたもや「どうか助けて」と訴えが繰り返される。いかに敵(神から引き離そうとするもの)が多いか、ということだ。だから『イスラエルを、そのすべての苦しみから救い出して』と祈るのである。全ての苦しみからの救い、それが天国だ。
 そういうわけで、この詩が読者に覚えさせたいこと、それは「主の小道(真理の道)を主から学んで歩め」ということである。そうすればうまく行く、良い人生になる、幸せへの道だということなのだ。それを願う人に、主は『選ぶべき道を教えられる』。かつて荒野でイスラエルに言われたように。『あなたは命を選べ』と。

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