預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇26

 『私を弁護してください』とダビデは言うが、それは助けを求めていると言うより、むしろ、裁き(正しい判断)を要求しているのである。新共同訳で『主よ。あなたの裁きを望みます』と訳されている通りだ。それも「私は正しく歩んだ」ということを判断してほしいというのである。そして、これからもそうするつもりだ、と。だから私を罪人と一緒に滅ぼさないで、と訴えているのである。
 しかしながら、神は判断を間違うようなお方だろうか。いや、神は正しい審判者であり、全てを見抜いておられる。罪ある者が裁きを免れることはない。だがこれは、自らの心の醜さを知る者にとっては恐ろしいことである。しかし同時に、自らの心の貧しさを認めるからこそ、そこに救いがある(罪を認めるからこそ救いを求め、赦しを得ることが出来るようになる)ことも忘れてはならない。だから、神が全てを知っているということは、キリストを信じる者にとっては恐ろしいことではなく、逆に、信仰のゆえに救われる、ということ(それが正しい裁き)の確実さ、喜びなのである。ゆえに「罪人と一緒にしないで」という訴えは無用だと言えるのだが、実は、この詩は「神の前に義とされるのは誰か(あるいは、義とされた者は、どのように生きるべきか)」ということが逆説的に語られているのだ。
 それは、まず「誠実に」だ。道徳的にではなく信仰的にである。つまり、主に信頼する(疑わない)ことだ。決して「何でも信じろ」というのではない。神の約束を疑うな(神を嘘つき扱いするな)ということだ。では、神の約束は何か。その最大・最高のものは「天国」である。全てはその為、と言っても過言ではない。そして、キリストを信じるなら天国に行ける、それが神の約束だ。その点において、よろめくな、というのである。律法主義に陥るな、騙されるな、真理の内を歩め、と。その他、信仰的に不真実な者と歩まない、など幾つかあるが、それらは結局、詩篇1:1~3に通じることだ。そのような生き方をする者は幸いなのである。何故なら、正しく裁かれて(キリストを信じる信仰のゆえに罪が赦されていると認められて)天国に行けるからだ。だから神に「どうぞ裁いて下さい」と言える者となろう。

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