預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇27

 主を待ち望め、とはどういうことか。心を強くせよ、ということは、気弱な人はだめだということだろうか。『雄々しくあれ』という、なんとも力強い言葉ではあるが、「漠然とした励まし」などではなく、具体的・実際的な力を、この詩から受け取りたい。
 ダビデは『一つのことを主に願った』。願い事があるということは、そこに弱さがある(神の助けが必要)ということでもある。彼が願ったことは『命の日の限り、主の家に住むこと』(要は、神との親しい交わり・礼拝)だ。つまり、それを求めないと自分は弱ってしまう、ということなのである。ただ、彼の願いはその一つだけというわけではない。「憐れんで、見捨てないで、見放さないで」と普通に願い事をしている。だから、それは「多くの願いの中から、一つ目のことを願った」ということである。それ程に、神との交わり・礼拝は、力だということである。何故なら、それは主が(と5節にある通り)助けて下さるからだ。ゆえに神を崇めたいと願うのである。そのような礼拝を神は喜び、更に恵みを注いでくださる。すると、その恵みのゆえに更に神を崇める。これは恵みのサイクル(循環)だ。
 現実にはダビデにも様々な問題・苦しみがあった。具体的には、偽りの証人が暴言を吐く、というものだが、「ダビデは滅びろ」とでも言ったのだろうか。確かに、罪人かもしれない。だが、神のしもべである。その点においてクリスチャンも、惑わされてはならない。キリストを信じる者は神の子、それが神の約束である。だから「もし生ける者の地(天国であろう)で主の慈しみを見ることが信じられなかったなら」とダビデは言う。もし、天国を信じられなかったら、絶望だ。
 それゆえに『待ち望め。主を』と続く。それは「主との交わりの時を待ち望め」ということである。それが文脈だ。神を礼拝する中での神の更なる恵みを待ち望め、それによって心を強くせよ、というのだ。それがないと弱ってしまうから、それが一つ目の願いだ、と。
 私達も、主の御顔を慕い求めよう。主との親しい交わりをいつも持てるようにと願おう。主の助けと守りを喜び感謝する、その礼拝の中に、さらなる神の恵みが注がれることを待ち望もう。

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