預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇28

 まず祈り。例によって「助けて、救って」と訴えている。そのあと独白としての「信仰の告白」が続く。ところが、最後の祈りでは、またもや「救って下さい」と訴えるのである。不安や恐れの中、信仰によって勝利の確信に至ったものの、それでも不安は完全には拭い去れなかった、ということだろうか。ならば、この詩は私達に何を教えようというのだろう。実は、最後の祈りは、同じ祈りでも少し様子が違う。前半の祈りは「私を」という個人的な祈りだったのだが、最後は「民を」「彼らを」という願いになっているのである。つまり、この詩は、まず嘆きつつ祈り、信仰によって勝利を確信し、とりなしの祈りへと引き上げられた、というストーリーなのである。
 その、とりなしの中の『民を祝福してください』だが、この願いは何だろう。「祝福」とは何か、だ。そもそもは「幸福を祝うこと」が祝福である。例えば結婚式で「おめでとう」「良かったね」と祝うようにだ。その「祝う心」抜きで(むしろ悪態と共に)プレゼントを貰っても、それは祝福とは言えない。むしろ呪いとみなされるのではないか。勿論、神から、癒し・奇跡・恵み・ギフトを受けることも祝福である。が、あくまでも「祝う心」と共に、だ。つまり、何かを貰うこと自体が「祝福」なのではないのである。例えば、最後の晩餐で主はパンを祝福された。パンに対して何かギフトを送った? 千切れたパンを癒した? いや、パンがあることの幸いを祝ったのである。何故なら、そのパンは、キリストが十字架で体を裂かれることを表すものだからだ。十字架によって、信じる者が救われる、その幸福を祝ったのである。そのように主は、救われている人に「おめでとう」と祝って下さる。時には、ギフトも添えて。たとえギフトは無しでも、言葉だけで嬉しい、それが祝福されるということだ。何故なら、それも結婚と同じで、誰よりも自分自身が、その幸福を喜んでいるからである。だから「おめでとう」という祝いの言葉だけで嬉しいのだ。そういうわけだから、私達も、救われていること(信仰を持ったこと)を喜び、主が羊飼いであること、いつも共におられることを喜ぼう。そして「そんな私の幸福を祝って下さい」と主に祝福を求めよう。

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