預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇29

 主に栄光を(返せ、ではなく)帰せよ、と聖書は言う。一旦、奪ってから返す、は良くない。栄光は主から出て主に帰るもの(誰のものでもなく、初めから主のもの)なのだ。では、どうやって帰らせるのか。それは、祭司として偉大な神を礼拝することによってである。その神の偉大さが3~10節に記されている。「主の声は杉の木を引き裂く」とか「大森林を裸にする」とかだが、これは、人間が神と拝むもの(例えば、太陽、富士山、大木など)よりも神は力強い(それらを蹴散らしてしまう)ということだ。自然界にあるものは、全て神の御手による。だから「その宮(直訳は「彼の神殿」)で、全てのものが、「栄光」と言う(神を賛美する)というのである。続いて『主は、大洪水のときに御座に着かれた』だが、これは「混沌の時に」ということを表現しているのだろう。天地創造の初めの(闇が大いなる水の上にあり、混沌としていた)時に、神として天地を造り、全てを支配したのだ。それ以来とこしえに天と地の支配者である。その、神が造った太陽、大木……を拝むのは愚かだ、主の栄光をそれらに渡すな、主に帰らせよ、という訳だ。だから11節の『主は、ご自身の民に力をお与えになる』は、文脈的には「栄光を神のものとする為の力を与える」ということであろう。その為に主は、ご自身の民を祝福されるのだ。そして神の民は、祝福されることによって、その為の力を得る。そう「恵みの循環」だ。加えて、ここでは『平安をもって』祝福するとある。神の民は、幸福を祝って頂き、ギフトとして「平安」も頂くのである。そのような祝福のゆえに更に神を礼拝する、それが「神に栄光を帰す」ことなのである。そのような礼拝を祭司として捧げるようにという訳だが、祭司を必要とするのは誰か。クリスチャンは自分自身が祭司だから、祭司に執り成してもらう必要がない。それが必要なのは、まだ主を知らぬ人々だ。つまり未信者に、自らの生活を通して神の栄光を示せということ(神の平安の中に生き、世の光となる、その姿を見て、人々が神を崇めるように、ということ)だ。それが祭司としての「栄光の神への帰し方」なのである。その為の力を主が下さる。自分の力では難しい。だから、主は偉大だと知れ、とこの詩は言う。

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