預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

一人一人・銘々、メーメー(マルコ6:34)

6:34 イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。



 「羊飼いのいない羊」は、自分だけでは生きて行けない。羊は、他の動物と違って、自分の身を守る能力(速い脚、牙、角、臭い……)を持っていない。ただメーメーと鳴くのみだ。加えて、羊は、他の羊が向かう方向と同じ方へ行く性質がある。その先が崖であっても、前に倣え、とドンドン突き進んで行く。だから、羊には羊飼いが必要なのである。


 だが、昔のイスラエルの羊飼いは、無責任な「悪い牧者」だったようだ。そんな羊飼いに飼われる羊は可哀想である。


 同じように、主は、人々が『羊飼いのいない羊のよう』であることを見て、深く憐れまれた。と言うのは、当時のイスラエルの指導者達・律法学者(つまり、民を牧するべき立場の人々)は、「悪い牧者」 だったからだ。エゼキエル34:1~5で、そのことが言われている。だから主は、『わざわいだ。偽善の律法学者』と、厳しく責められた。彼らは、人々から天国を遮り、入ろうとする者を入らせないようにしていた。それゆえ、人々は、弱り果てている、と主は言われたのだ。


 それは何も、昔のイスラエルだけでない。現代も、人間の魂は、羊飼いのいない羊のようだ。何とかして、一人一人・銘々(めいめい)が、自分の身を守ろうと、様々な鎧(学歴、お金、地位、権力……)を身に付けるが、肝心な「心」が守れないまま、弱り果てている。


 そんな人間を、主は、深く憐れみ、自ら「良い羊飼い」となり、羊の為に命を捨てて下さった。
 その「良い羊飼い」に飼われる羊の幸いをダビデは詩篇23篇で歌っている。その時、彼は、実の息子に命を狙われて逃げていた。そんな悲惨な状況でも、神への信頼は揺るがなかった。やはり「神への信頼」こそが、最強の鎧なのだ。


 人生という広い草原……どこに何があるか、何が起きるか、見当もつかない。しかし、どこに行っても、神の守りがある。何故なら、ダビデも言うように、『主が私と共におられますから
 魂の羊飼いなる主は、私達を緑の牧場に導き、養い、守り、助けて下さる。更に、主の教えに聞き、導かれて行こう。

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