預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

日常が・・・(ヘブル4:12~13)

昨日、退院して、日常が戻ってきました。
早速、御言葉を・・・




4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
4:13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。



 そもそも、言葉には非常に大きな力がある。とりわけ神の言葉には。
 だからこそ、慎重に取り扱わなければならない。下手に扱うと、甚大な被害を及ぼす危険がある。人を救うはずの神の言葉が、人を苦しめる道具になってしまうのだ。まさに「取扱注意」である。


 その神の言葉は生きている、と聖書は言う。それは、神の言葉は霊であり命だと、ヨハネ6:63にある通りだ。
 神の言葉は、命そのもの。あるいは、命は神の言葉から出て来たとも言える。何しろ、神は、言葉で世界を造り、人を造られたのだから。いや、もしかしたら、神の実体・実態は、言葉なのかもしれない。聖書も言う。『初めに、ことばがあった。ことばは神であった』(ヨハネ1:1)と。


 とにかく、生きていて、力があり、全てを判別する、それが神の言葉だ。ゆえに、隠れているものは全て神の前に露わにされる。それは、『両刃の剣よりも鋭く』だ。
 つまり、神の言葉は、従えば祝福だけど、背けば裁きとなるということである。だから神はイスラエルに言われた。『見よ、わたしは、あなたの前に祝福と呪い、命と死を置く。あなたは命を選べ』(申命記30:19)と。
 祝福か呪いか、それは自分で選べるのだ。実は、そこに重大な霊の戦いがある
 御言葉に従うことを選ぶか、拒むことを選ぶか・・・その戦いが常に自分の心の中で巻き起こっているのだ。それは、私達をキリストの愛から引き離そうとする様々な力試練、苦しみ、病、経済的問題、人間関係……)との戦いでもある。


 その激しい戦いに勝利する為に、神に従いなさい、と聖書は言う。いや、むしろ、神に従うことを選び取れるかどうか、それが日常における霊の戦いなのである。マルコ5章に出て来る「ゲラサの人々」は、その戦いに負けた。彼らは、イエス様に「立ち去ってくれ」と願った。彼らは、神と共に生きることより、悪霊と共存することを選んだのだ。


 『私達は、この神に弁明をする』(ヘブル4:13)時が来るのだが、罪については、すでに処分は済んでいるはずだ。では、何を弁明するのか。それは、文脈から明らかなように、「何故、御言葉に従うことを選ばなかったのか」ということだ。


 祝福か呪いか、命か死か。
 私達は、祝福と命を選び取ろう。

×

非ログインユーザーとして返信する