預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

死んだらアカン(ガラテヤ5:16~25)

5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。



 『もし私達が御霊によって生きるのなら』とあるが、それは、「御霊によって生きない」という選択肢があることを意味はしない。
 何故なら、クリスチャンはみな、聖霊によってイエスを主と告白し、新たな命に生きるようになった者(すなわち、御霊によって生きる者)であるからだ。であるならば、御霊に導かれよう、というわけである


 そのような『キリストにつく者』は、『自分を十字架につけてしまった』と言う。パウロも自身がそうだと言うし、『もはや自分は死んだ』とまで言う。


 そこから導かれて来る考え方に、「自我に死ぬ」というものがある(そして、それが「聖め」だという)のが定説だ。


 が、自我とは……?
 それは、知性、感情、意志、思考などである。それらが死ぬということは、それは、ロボット化すること(人間でなくなること)だ


 神はそんなことを望んでおられるのか。いや逆に、自らの意思で神に従うことを選び取るように、と願っておられるのではないか。アダムとエバに対してそうであったように。
 礼拝も、献金も、
 強制ではなく、律法でもなく、自発的に行われてこそ、神に喜ばれる。自我が死んでいては、何も自発的に行なうことは出来ない


 事実、十字架に付けられて死んだのは、パウロの「自我」ではなく、「古い自分(ローマ6:6)だ。
 それは、「罪人であった自分」すなわち、「神に背いていた自分」のことである。それを十字架につけて殺す、と言うのだ。
 つまり、「これからは神に従って生きて行きます」ということそれを自らの意思で決心する、それが「自分を十字架につける」ことなのである。その為にこそ自我は必要だ。


 ただし、そのせっかくの自我が肉の欲に導かれてはならない。御霊に導かれるべきである、ということが重要である。導き手が複数あっては舟は進まない。
 御霊に導かれる為には、御霊に満たされればよい。そうすれば、肉の欲の混じっていない(神の御心だけ)の「聖め」が実現する。神は、私達がそうなることを望んでおられる。(Ⅰテサロニケ4:3~8) だから、聖霊が与えられているのだ。


 その聖霊を更に豊かに注がれ、教会は誕生した。
 だから、教会(クリスチャン)である私達は、御霊に満たされ、御霊に導かれることを求めよう。

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