預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

雇ってもらえない辛さと福音(コロサイ1:6)

1:6 この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。



 『神の恵みを本当に理解したとき以来』、福音は爆発的に広がった、とパウロは言う。リバイバルは、掛け声や意図的な運動など人為的なことによって起きるものではない。神の業は、神の恵みによって、だ。ゆえに、日本において福音が広がることを願うなら、まず私達クリスチャンが、神の恵みを本当に理解し、悟ることが必要である。


 そこで、マタイ20章の――1日中働いた者も1時間しか働かなかった者も、同じく1デナリもらった――ぶどう園のたとえだが、


マタイ20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
2 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
3 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
4 そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
5 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
8 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
10 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。


 これを読むと、なんとなく、不公平だと感じるかもしれない。だとしたら私達は、神の恵みを本当には理解していない、ということだ。


 確かに、もし自分が「先の者」だとしたら、納得出来ないだろう。しかし果たして、私達は「先の者」なのだろうか。例えば、「雇われた時間」を時代で考えるなら、「終わりの時代」と言われる時に救われた私達は「5時頃に雇われた者」だ。ユダヤ人と異邦人という順番で考えてみても、やはり私達異邦人は「後の者」だ。不満を言うどころか、感謝するべきである。何より、全ての人(クリスチャン)は「5時頃に雇われた者」だと言わざるを得ない。何故なら、何の働きもない――律法を行なったから義と認められたのではない、単なる罪人である――のに「義」と認められたのだから。


 主人は、「先の者」に対してはキチンと約束を守っている。ただ、「最後の者」には、恵みを与えたいと思われた。なぜなら、彼らは苦しんだからだ。彼らは、サボっていたのではない。一日中仕事を求めていたのに雇ってもらえなかったのだ。それがどれほど辛いことか。不安と焦り、疲れ……それは朝早く雇われて一日中働けた人の比ではない。


 幸いを求め、求めても求めても、与えられない…そんな日々を過ごすことの辛さを主はご存知で、だから、何の働きもないけど、恵みを与えたいと願われた。私達も、それぞれの人生において、同じように苦しんで来た。だから、何の働きもないけど、主は恵みを与えて下さったのだ。これが、神の恵みである。私達は、このたとえを読んで、不満を感じる必要はない。むしろ、神の恵みを本当に理解しなければならない。福音は、そのときから勢いを持って広がって行くのだから。

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