預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

ファーストポスト

元日礼拝が終わって、ここからが正月の始まり。
正月はやっぱり、漫才ですよね。
主の年2020、おめでとうございます。

ラストポスト

大晦日は、やっぱり格闘技ですよね。
どうぞ良いお年を。

詩篇83(神の沈黙? その理由)

 イスラエルを敵が包囲している、そんな状況で神は沈黙を続けている。何故、神は動いて下さらないのか。この問題は、遠藤周作の小説よりはるか以前、旧約時代の昔から存在していたのだ。
 歴史の事実として神は、いつも、毎回、全ての事に一つ一つ、細かく、介入する訳ではない。ステパノをはじめ、使徒達、多くの弟子達が無残にも殺されていった。神はそれをある程度、眺めているだけ……と言えば、そんなバカな、と驚かれるかもしれないが。
 それでも、ある人々は、全て(例えばサイコロの出る目も)神がコントロールしていると考える。この世界に偶然は無い、全て神の計画であると。ならば何故、神は、迫害されているクリスチャンを助けないのか。どうして神が沈黙するなどという事が起きるのか。何でも出来る(不可能は無い)はずなのに。
 神が手を出さない、それは実は、天地創造が完成した時からだ。7日目に休んだというのが、それである。それは、創造の手を止めたという事であり、休暇を取ったという意味ではない(神は今に至るまでずっと働いておられると主も言われた)。つまり、完璧なシステム(森羅万象)を造ったのち神は、もはやご自身の手を下す必要がなくなったのである。すなわち「手を出すのをやめた」のだ。しかし残念ながら人間の罪によって世界は歪んだ。その歪みのまま動いている世界の故に自然災害は起こるのであって、災害は決して神が起こした訳ではない。
 では神は、世界が狂ったまま放って置くのか。いや、介入した。それも最大の、2度と無い奇跡の介入を。それが御子を地上に送り十字架につけた事だ。信じる者の罪を赦し、この狂った世界を新しく造り直す(新天新地を与える)為である。神は、世界の嘆きを見て見ぬ振りしているのではない。救いの業を行っているのだ。ただ、それが完成するまでは世界は歪んだままなだけなのである。それゆえ、神が沈黙しているように見える事があり、逆に、憐れみによって奇跡をなされる場合もあるのだ(必ずしも、いつも、ではないが)。
 結局、敵はどうなるのか。滅びるのか救われるのか。どっちに転んでも最終的には、神は恐るべき方である事を思い知る(16~18節)。
 だから、神が沈黙しているように思えても、大災害が起きても、あるいは奇跡が起きたとしても、いずれにしても、神はおられると知る者であろう。そして神は既に最大最善の介入(十字架)をして下さった。この神を、どんな時も信頼して、神と共に生きて行こう。

春夏秋冬

年末感とか、お正月感とかって、毎年薄れて行くのは、歳のせい? 皆さん誰でもそうなんでしょうか? それとも、仕事納めが無いうえ元日から仕事の、牧師だからなんでしょうか……。
あと3日で新年とはねえ。
実際のところ、カウントダウン、そして時報のピッピッピッピーでは何も変わらないからなあ。
来年も仕事に追われながら合間に裁判に、市民運動にと勤しむのであろうなあ。
12月23日に結審した「福島原発事故被害救済九州訴訟」判決は、2020年6月24日。どんな判決が出ても、当然どちらも控訴するだろうから、終わらない。変わらない。続く。happy new year は、いつ来るのだろう。早く来てほしいなあ。


今日ですべてが終わる、今日ですべてが変わる、、、って、いつですかあ!?
しげるさん!

回って回って回る~うう?(ヨシュア6:1~5)

 7日間で合計13回、エリコの城の周りを回ると城壁が崩れた。この出来事から「13回回れば神のものとする事が出来る」と「祈りの歩行」なるものがいつ頃からか流行し始めた。勿論、祈って歩く事が悪いとは言わないが、これを真似したからって海の水まで奇麗になるなどとはにわかには信じられない。そもそも、7日間回ったという事は、安息日にも労働した訳で当時としては律法違反ではないか。そこは見て見ぬふりなのか、それともある注解が言う様に「戦争自体が礼拝行為だった」という危険極まりない思想に同調するのだろうか。
 思い出そう。新約が実体で旧約はシルエットだ。実体が球体ならシルエットが四角になる事はない。つまり、新約に無い教えを旧約から捻り出してはいけないのである。すなわち、「約束の地」であるカナン、それは天国を教える為のモデルなのだ。そして天国(神の国)とは「神の支配」の事である。そして主が「あなたの中に神の国はある」と言われた通り、心の中を神に支配して治めて頂く事によって得る平安、それがまず最初の「約束の地」なのであり、そのシルエットがカナンなのだ。所が、そのカナンには先住民がいた。特にエリコはその地域で最古の町だ。そして、そこに入って来た神の民を拒んで城門は固く閉ざされていた。これもモデルだ。私達の心の中にも古い人がいる。自分の立派さ、行いの正しさを誇ろうとする思いだ。その先住民は、後から来た「神の支配」を拒む。だから追い出さなければならない。つまり、律法主義等を払拭して神の支配「約束の地」を自らのものとせよという事、その様な新約を貫く教えのシルエットなのである。
 聖絶も、古い人・「行いの正しさにすがる気持ち」を追い出せという事のモデルだ。イスラエルが「それ」を惜しんで我がものとした事に神は怒ったのである。異邦人を殺すどころか、異邦人をも救う為に神であるお方が、逆に殺されて下さった。この神に信頼せよ、主の前に静まって力を得よ(イザヤ30:15)という事、それが「古い城・古い人」を攻略する方法だと教えるのである。
 私達は、どんな時も神に信頼して力を得よう。心の中に神の支配・平安を実現させて頂こう。その様にして約束の地を手に入れよう。