預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

まだ生きてます


10月に全国発売された拙著『苦しくならない聖書の本』~福音の真理・命を守りたくて~(玄武書房)
アマゾン売れ筋ランキングで、2つランクが上がったとか、7つ上がったとかは普通にあるが、当然ながら徐々に落ちて行く。そりゃあ毎日、新しい本が発売されるんだから古いのは押しのけられていく。そしてとうとう1496位……からの98位へ一気の返り咲き! ランキング入り!(昨日の話です)
こんな事がこの約3か月の間に一度二度ならず何度もあった。ブレイクする可能性はある。と思う。応援お願いします。

「メリークリスマス」は死語となる

キリスト教国と思われているアメリカでは、ずいぶん前から「メリークリスマス」という挨拶をやめようという「脱キリスト教」の動きが起きている。ほかにも、学校に聖書を持ってきてはいけないと決められたり、その動きは止まらない。それは、多民族国家ゆえに、宗教も多様で、一つの価値観を全員に押し付ける事が出来なくなってきたからである。そこで、宗教色を排除する代替案として「ハッピーホリデイズ」が挨拶の言葉として定着した。やがて日本もそうなっていくだろう。むしろ、日本の場合は、そうなった方がいいという気がするが。なぜなら、日本におけるクリスマスの騒ぎは、もはや教会など足元にも及ばないほどの盛大さだからだ。それも、意味も知らず、中身のないどんちゃん騒ぎだから閉口する。「サンタの日」などは序の口、「恋人たちの日」は論外、「キリスト教のお祭り」は初級、「キリストの誕生日」で中級、その認識さえ決して多数派ではないかもしれない。ちなみに、うちのすぐ近くのお寺のイルミネーションが凄い。派手なデコレーションで目を引く。とても対抗できない。「へえ、教会でもクリスマスやるんですか」という笑い話もあながち嘘ではないのかもしれないと思える。
そのようにして「クリスマス」が骨抜きにされていく。ゴスペルが「みんなで歌う事」になってしまって、クリスチャンでもない人が市民講座でゴスペルを教えるように。発声練習の時に、ストレッチしながら「さあ、このヨガのポーズで宇宙と繋がりましょう」とチャネリングのようなことをし、挙句の果てに「ゴスペルではない曲も歌いましょう」となるように。
自分が信じてもいない神を祝うとはどういうことなのか、真面目に考えるなら、きっと「メリークリスマス」という言葉は日本から減少するはずだ。そうだ、クリスマスパーティという名称がよくない。忘年会って言ってくれればいいのに。それなら喜んで参加させてもらう。


「いと高き所に栄光が神にあるように」
神に栄光、それこそがクリスマスの正しい在り方だと言えるだろう。
今年も、静かに礼拝を捧げるとしよう。

「祝福の歌」という歌

これを作曲したのは1992年。録音したのは2001年。
あれは2002年だったか、関西の教会に特伝で招かれて、これを歌ったら、
「ええ歌でんなあ、CDないんでっか?」という方がいらっしゃって、
これをカセットテープ(!)にダビングして送ってあげたら、
「家宝にします」との礼状が返ってきたという名曲。笑


5年前の陳述

6日後の最終弁論を控えて、5年前の最初の意見陳述を載せたいと思います。
これは先の「玄海訴訟」の時のと、内容は似ていますが、こちらは「避難者訴訟」ですので、若干、方向性が違います。


以下



意 見 陳 述 書


原 告   金 本 友 孝


1 私は、平成23年3月、福島第一原発事故のため、妻と、当時17歳、13歳、10歳だった3人の子どもを連れて、妻の実家がある福岡県へ避難してきた者です。それまでは、福島県いわき市で、教会の牧師として平和に暮らしてきました。しかし、原発事故で、それまでの生活は完全に破壊されました。
2 私が住んでいたのは、福島第一原発から40キロの場所です。あの大震災が起きたとき、家の中がメチャクチャになり、ガスも止まり、水も止まり、あちこちで火事が起き、救急車や消防車のサイレンが鳴り響く、あたかも戦場のような異常事態でした。
3月12日の朝には、近くの体育館に給水車が来たので、水をもらうために子どもたちを4時間以上、野外に並ばせました。私自身も、水を手に入れるため、生活排水が流れ込む用水路にまで水を汲みに行きました。この時は、まさかこれ以上悲惨な出来事がおこるなんて、思いもしていませんでした。
3 3月12日の午後4時ごろ、大阪にいる友人から「原発が爆発したぞ!今すぐ逃げろ!」というメールが届きました。すぐには信じられませんでした。「うそやろ?原発が爆発?そんな、まさか、まさか…」とつぶやくしか出来なかったのです。テレビのニュースでは、まだ報道されていませんでした。すでに、地震の起きた11日から原発事故は始まっていたのに、福島県民である私たちには、何の情報も伝えられていなかったのです。「原発が爆発したってことは…広島…長崎…キノコ雲…」と、最悪の事態を思い浮かべましたが、それは大袈裟ではなかった、という事が後に分かりました。私は、放射性物質がすでに大量に漏れ出していた事も知らずに、外出し、子どもたちを長時間野外に並ばせてしまっていたのです。
 第一原発が爆発したのであれば、第二原発も連鎖的に爆発するのではないかと思いました。第二原発はさらに自宅から近いので、爆発すれば私たちもおしまいです。一刻も早く原発のそばから逃げなければならないと思いました。ですが、逃げたくても、地震のせいで、道はふさがれ、ガソリンもありません。いったいどうすればいいのかわかりませんでした。妻や子どもたちは、当時は原発事故の重大さを理解できていない様子で、目の前の生活の心配ばかりをしていましたので、家族の命を守れるのは自分しかいない、家族の命を背負っているという重圧を感じました。
救援物資もなく、放射能を恐れてボランティアも来ず、いつ大爆発が起こるのか、今か、今日か、明日か、という不安と恐れの中、何も出来ず、とうとう「ああ、ついに、ここで死んでしまうんだ」と覚悟しました。あの恐怖は、まるで、墜落する飛行機に乗っているようでした。翼が折れ、エンジンが火を吹き、機体に穴が開き、キリモミしながら急降下する飛行機。何も見えず、何も分からないまま落ちて行く、その恐怖。逃げ道はなく、ただ死ぬのを待つのみです。私は、自分に言い聞かせるように、テレビの前の3人の子どもたちに「せめて、苦しまないで死ねるように祈りなさい」と言いました。
4 紙一重で、何とか、最悪の事態は避けられはしました。爆発から4日後、3月16日になり、ようやく奇跡的に少しばかりのガソリンが手に入りました。
避難を決めたときには、家の中にいたほうが放射能の影響が少ないのではないか、途中でガソリンが切れて立ち往生してしまうのではないかと思い、避難すべきかどうかを迷いました。しかし、この頃には、いわき市民の約3分の2が避難しており、もはやとどまることは考えられない状況でした。このまま福島にとどまって死を待つくらいならば、少しでも原発から離れようと思い、避難することに決めました。
避難をすると告げたとき、子どもたちはこわばった表情で「うん」と頷くだけでした。子どもたちは、震災直後から表情が完全に固まっていて、口数も少なくなっていました。避難すると言われても、そのことについて考える余裕などなかったのだと思います。
その日の夜、私は、車に詰め込む荷物をまとめながら泣きました。信者が1人もいない状態からいわき市で牧師を始め、アルバイトをしながら教会の運営を行っていました。15年かけて、ようやく自分の教会が持てるようになりました。教会は、自分で図面を作ってデザインをした、思い入れの深いものです。信者も当時は40人ほどいましたが、みんな私が洗礼を授けた、我が子のような存在でした。「もう二度と帰って来られないかもしれない、今日で最後かもしれない」と思うと、涙がこぼれました。
5 3月17日の朝、地震の影響でたわんだ高速道路を、家族5人を乗せた車でひたすら南下しました。途中、茨城ナンバーの車が多くなり、ようやく地獄から抜け出せたという安堵の気持ちがこみ上げました。東京の知人のところに一泊させてもらいましたが、そこには私たちと同じような家族がひしめいており、長居はできませんでした。翌日、大阪にある私の実家に向かうことにしました。食事をとるために立ち寄った静岡のサービスエリアからみえた富士山が、まるで何事もなかったかのように余りにも美しかったことを覚えています。大阪にしばらく避難した後、九州にある妻の実家へ避難しました。幸いにも、久留米市で避難者のためにと用意された県営住宅に入ることが出来ました。また、牧師としての仕事も見つけることができました。
私は、3月30日、もう福島へ戻らないことを決めました。私は全てを捨てて避難してきましたから、教会の運営のための収入源も失いましたし、もはや福島に帰って生計を立てることは出来ません。「もう福島には戻れない」と告げると、3人の子どもたちは、大変なショックを受けました。長男は、自分1人で帰ると言いましたし、次男はおろおろするばかりで、末の娘はおいおいと泣き出しました。高校3年生になる長男は、大学受験のための全ての準備、学習、計画が崩れてしまい、目指していた大学に入ることを諦めざるをえませんでした。子どもたちには何ヶ月もかけて少しずつ話をし、ようやく納得してもらいましたが、故郷を失い、友達と引き離され、夢を奪われた子どもたちの悲しみはどれほどだったかと思うと胸が痛みます。子どもだけでなく、私と妻も、福島で営んできた全てのこと、人との繋がり、心の思い、何もかも引き裂かれてしまいました。
子どもたちは、避難から3年半以上が経った今でも、「いわきに帰りたい」と言い続けています。私は、「そうだね」と答えるしかできません。福島に帰りたいという思いは、子どもたちも私も同じです。ですが、一度福島を捨てた私たちが、今になって戻る場所なんてありません。
6 爆発から3年近く経った去年の12月、ようやく、ようやくです、子どもたちの甲状腺検査の順番が回って来ました。結果、3人とも、甲状腺に1、2ミリののう胞が無数に見つかりました。今後、定期的な検査をする必要があるそうです。あの時外に並ばせたことが原因かもしれない、と今でも悔やまれます。
7 原発事故で、私たちの人生は大きく狂わされてしまいました。私たち避難者は、原発事故の影響で命に危険を感じたからこそ避難してきました。ですが、避難者の中には、家族や友人を福島に残している人が数多くいます。私の大切な人たちも、福島に大勢残っています。そんな大切な人たちが、今まさに生活している福島のことを「危険だ」と言わなければならないことが、どれほど苦しいか想像できますか?家族の命を危険にさらすわけにはいかない、福島には戻れないと思う一方で、自分たちが避難しているという事実が、残っている人たちを傷つけているのではないかという思いもあり、この3年半、心が引き裂かれそうでした。
  福島も、私たちの人生も、全てを元に戻して下さいと言いたいです。せめて、人の人生を狂わせた責任ぐらいは取るべきではありませんか。
  国や東京電力には、どうか私たち避難者が受けた被害から目をそらさずに、誠意を持って損害賠償をしてほしいと思います。

最終弁論まであと一週間

12月23日、福岡地裁にて「福島原発事故被害救済九州訴訟」結審の時を迎えます。
当日、原告団長として最終弁論をしますが、それに先だって、過去の裁判での意見陳述などを載せています。


今日のは、2015年、ある機関誌の要請に応じて書いた文章です。


以下


福島県いわき市からの避難者 金本 友孝


 私は騙されていた。愚かだった。「原発は安全、事故は絶対起こらない」という言葉は、見事にウソだったのだから。
4年前の、原発が爆発したあの時、震災で避難の道をふさがれ、どうすることも出来ず、何の情報も与えられず、まるで墜落する飛行機に乗っているかのように、真っ暗な中を落ちて行く、そんな恐怖を味わった。もうおしまいだ。そう感じた私は、3人の子供達に告げた。「せめて、苦しまないで死ねるように祈りなさい」と。
 紙一重で、最悪の事態だけは免れた。が、確かにあの時、日本は死にかけていたのだ。事実、当時の政府は最悪の事態(東日本壊滅)を想定していたという。それを免れたのは奇蹟だ。幾重もの偶然が重なってようやく首の皮一枚つながっただけなのだ。時の総理であった菅直人氏も、そう言っている。
 いったい、どこが「安全」なのか。何が「クリーン」なのか。今でも、「安全を確認して再稼働」などと寝ぼけたことを言ってる国と電力会社に言いたい。「人を死の危険に晒しておきながら、よくも平気で……」と。原発事故で死んだ人はいないから大丈夫、再稼働すると言うが、それは、「ナイフで刺したけど、死ななかったから、また刺す」と言うのと同じではないか。それに福島では、津波で死んだ人より、原発関連死の人数の方が多いのだ。
 私は怒っている。「命よりカネだ」と考えている人々に。彼らは「自分の命を犠牲にしてでもカネが欲しい」と言ってるのではなく、「他人の命を犠牲にしてでもカネが欲しい」と言っているのだ。それは泥棒の論理だ。
 原発は麻薬と同じで、最後は破滅が待っている。勿論、麻薬を断つには苦しみが伴うだろう。その苦しみを嫌がって、「原発が無いと経済が……」と言うが、しかし、どんなに苦しくても、やめなければならない、それが「原発」という名の麻薬だ。
 もしまた事故が起きたら……というような「仮定」をしている人は、今はもういない。「事故は起きる」という前提のもとに、避難計画を完全に立てようと言っているのが証拠だ。だが、避難しなければならないような事故が起きたら、もうそこへは(汚染されて)帰れなくなる。避難計画は汚染を防げないし、なにより、奇蹟はそう何度も起きないだろう。それとも、また奇跡が起きて助かるとでも思っているのだろうか。
4年前、命からがら生き延びた日本。その命を大切にしよう。