預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

するって言うのにスルーする?(出エジプト3:7~12)

 イスラエルをエジプトから解放させよ、との重責を受けたモーセ。それ程に神に信頼されていたのだなと思うが、彼は遠回しに断り続ける。神は怒り、モーセを殺そうとさえする。モーセの何がいけなかったのか。それは、神が「私がする」と言うのに、モーセが「無理」と決め付けた事である。確かに、モーセ自身にはエジプト王と渡り合う力は無いかもしれない。しかし、神が「する」と言うのを「スルー」してはいけない。信仰とは「神の約束は絶対だと信じる」事であるのに、モーセは信じなかった。ゆえに彼は「信仰の模範」とは成り得なかったのだ。彼に足りなかったのは、自分の力ではなく、神への信頼である。
 ではどうすれば神への信頼が強められるのか。神の声が聞こえたら、あるいは奇跡を見たら、もはや疑う事は無くなるのだろうか。いや、モーセは神の声を聞くどころか、語り合うまでの体験をし、奇跡も目の当たりにしながら、神を信頼しなかったのである。主も「たとえ死人が生き返っても彼らは信じない」(ルカ16:31)と言われた。
 ヤコブ1:2には「さまざまな試練に会う時は、それをこの上もない喜びと思いなさい」とある。主の懲らしめ・訓練(レイデイア)は育てる為(ヘブル12:5~11)だが、試練(レイパスモス)は違う。それは、滅ぼす為のサタンの攻撃だ。喜べるはずのものではない。だが「喜びと思いなさい」と聖書は言う。「試練を喜べ」ではない。「いつかきっと喜びの時が来るのだろうなあと想像しなさい」という事だ。何故なら、試されると信仰(神への信頼)が強くなるからだ(ヤコブ1:3)。その信頼とは、神が必ず助けてくれると信じる事ではない。事実、ステパノをはじめ使徒達は殺されたし、日本にも沢山の殉教者が出た。しかし、たとえ殺されても、喜べる時が来ると想像するのである。いつ、そんな時が来るのか。天の御国に入った時だ。それは「何一つ欠けたところの無い成長を遂げた完全な者となる」時である。滅ぼす試練の末に死んだとしても、その喜びの時が来る。それを「する」と神は言う。その神の言葉を否定してはいけない。死の間際に魂を御手に委ねるほどの神への信頼を持つに至らせるもの、それが試練なのだ。
 荒野に試練はある。しかし神を信頼して、一歩一歩進んで行こう。

知ってるけど、知らないなら(Ⅰサムエル3:1~10)

 少年サムエルは主の宮で仕えていたのに、自分を呼ぶ主の声に気付かなかった。それは「まだ主を知らなかったから」だという。どういう事か。それは例えば、クリスチャンも「イエスが主である」事を知っている。主が「休ませてあげる」と言われた事も。しかし、主の元(教会)で重荷を降ろす事が出来ていない(疲れ果てている)とすれば、それはまだイエスの恵みを知らないのかもしれない。つまり知るべきは、神ご自身の素晴らしさ、御言葉の真実だ。それらを身を以って知るべきなのである。
 ここでサムエルは転換点を迎える。神に向かって「語って下さい、教えて下さい」と言いなさいと師匠に導かれたのだ。神は求める者に真理を教えて下さる。そして神ご自身が真理そのもの(ヨハネ14:6)である。すなわち、真理を求めるという事は「神ご自身を求める」(ヘブル11:6)事でもあるのだ。その人に神は報いて下さる。そう、神ご自身(真理)を求めなければ神に喜ばれないとヘブル書は言うのである。そして「求める者には与えられる、誰であっても」(マタイ7:7~8)と主が言われたのは、この事(聖霊によって真理を悟る事)である。
 その後サムエルは成長し、神の栄光を現す。ポイントは何か。何が「転換」したのか。それは「主が彼と共におられ」(19節)という所だ。それまでは、サムエルが主の元にいて仕えていた。けど、主を知らなかったのである。それが、神を求め、神を体験してからは、神が彼と共に居られるようになったのである。これが重大なポイントだ。
 ヨセフも幸いな人となった(創世記39:2)。主が共にいたからだ。決して全てが順風満帆ではない。ただ「主が共にいる」事自体が「幸い」なのである。何よりヨセフは紆余曲折の末、民族の救いとなる。そこに救い主キリストの姿(苦しみの末に救いの道を開く)が現わされている。つまり神は、神を愛する者の為に「全てを働かせて益と変えて下さる」(ローマ8:28)、最後には完全な救いに導いて下さるという事だ。
 その神の真実、恵みを知らずに必死に神にしがみ付いても楽にはならない。しかし、神が共にいる(神が味方)なら勝利を得る事が出来る。私達は、神の恵みを知る者となりたい。恵み深く、慈しみに満ちている、それが神だと知る事の出来るように神に求めよう

かえって、来た

帰宅。
写真は、オバマ元大統領も来た? らしい小浜。
次の日曜にはローマ法王も来るってんで、マイカー規制を促し中だった。
帰省する人は、かえって困るね。

いつも、急に。

いつもそうですが、急きょ、葬儀が入りました。
しかも今回は遠方なので、2~3日、更新が滞ります。

曲がってるほうが良い…!(伝道者の書7:13)

 神は正しいお方、神の内には暗い所が少しも無い、人間は真実ではなくても神は真実、偽りを言う事が無い、と聖書は言う。しかし聖書を見ると神は至る所で「曲がった事(正しくないと思える事)」をなさっておられる。例えば、主がヨハネから水のバプテスマを受けた事。罪の無い神の御子が何故「悔い改めのバプテスマ」を受けなければならないのか。ヨハネはそれを拒否した。それが正しい意見だ。しかし主は、その正論を曲げた。それは既に聖霊を受けたクリスチャンが更に聖霊のバプテスマを受けるようにとの模範を示す為であった。その様にして全ての正しい事を実行するのは私達に相応しい、と。そして、その通りに弟子達は聖霊を受け、教会は誕生した。主が正論を曲げたのは、実に私達の祝福の為、救いの為、愛の故なのだ。
 もう一つ、正論を言うなら、罪人は裁かれるべきだ。しかし神は、それを曲げて、罪人を救うと言う。加えて、その為に、罪の無いお方を裁くと言うのだ。まさに、冤罪、不当裁判、それを神はなさった。それは愛の故、信じる者が救われる為だ。それを真っ直ぐに戻すなら、罪ある人間はみな地獄という事になる。誰がそんな事をしたいと思うだろう。それは曲がったままのほうがいいし、誰も真っ直ぐに戻せやしない。つまり、この十字架(罪の無いお方が裁かれた)という曲がった道の他に救いの道は無いという事だ。ここに救いの確かさがある。
 「人の目には真っ直ぐに見える道があるが、その終わりは死の道である」(箴言16:25)とあるが、逆に、人間の目には曲がってると思える(十字架の)道が永遠の命への道だったのだ。だから聖書は言う。「その神の御業に目を留めよ」と。神が曲げた道(十字架による救いの道)を歩む、その信仰が祝福への道なのだ。
 「曲げる神」、その御業に目を留めよう。人間の目には、このまま行けばお終いだ、と見える道がある。理不尽な苦しみ、果ての無い苦難……、しかしそんな時でも、神の偉大なる御業に目を留めるなら、希望がある。何故なら神は、その道を曲げる事の出来るお方だからだ。全ての事を働かせて益と変えて下さるのだ。神の約束は必ず成就する。信じ、依り頼んで、信仰によって祝福を受け取ろう。