預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

ショック!

メインPCが壊れてしまった。
ハードディスクが破損したよう。
外付けに保存していたものもあるけど、Cディスクに残ってたデータは回復不能かも。
ああ、なんてこったい。

詩篇76(守る、守る、守る!)

 神の住まいであるエルサレムにおいて神は圧倒的に(勇士達が誰も手も足も出ない程に)勝利したというのだが、その勝利の詩が書かれた後、エルサレムはバビロンに滅ぼされてしまう。あの「イスラエルを敵から守る」という約束はどうなったのか。
 まず、「肉のイスラエルがそのままイスラエルなのではない」(ローマ9:6~8)という事、これが大前提だ。その上で「イスラエルを敵から守る」と言う事は「神の約束によって生まれた本当の意味でのイスラエルを守る」という事であり、それが聖書を貫く一本の筋なのである。それを見失うと、特定のナショナリズムに偏った宗教になってしまう。
 すると、この詩は何を教えるのか。それは、最後の裁きだ。その時に神は「地上の貧しい者達を皆救う為に立ち上がる」(8~9節)。主が八福の教えにおいて「心の貧しい者」を「幸いだ」と宣言された理由がそこにある。勿論クリスチャンといえど間違いや罪はある。裁きの座において、そこを敵(サタン)は責め立てて来るだろう。しかし神の子(真のイスラエル)の中心(エルサレム)を住まいとされる主が、敵の全ての攻撃を打ち砕き(2~3節)、救って下さるという事なのだ。
 では「人の憤りまでもが、あなたをほめたたえ」(10節)はどういう事か。新共同訳では「怒り猛る者もあなたを認める」だ。例えばヨブの友人達は「全て罪のせい」だとヨブを責めた。しかし、それは「真実ではない」(ヨブ42:7)と神の怒りを買う。ヨブが正しかったのだ。だから彼は自らの正しさを神に主張した。しかし、そのヨブでさえ、最後には「神のほうが正しい」と認めざるを得なかった。ましてやサタンがどれ程にクリスチャンの罪をあげつらい神に憤ろうとも、キリストを信じる者を、神が「義」とした事を認めざるを得ないのだ。
 11節、「神に誓いを立て、それを果たせ」だが、聖書は「誓うな」と言うのではない。むしろ洗礼は「これからは従います」という神への誓いだ(Ⅰペテロ3:21)。その誓いを果たせ、すなわち、神に従い続けよ、なのである。それとは逆に、神を神としない(自らが王となる、それは自らの行いの正しさを主張する律法主義に繋がる)なら滅ぼされる。地の王達にとって主は恐ろしい方(12節)なのだ。だから私達は、心の貧しい者である事を認め、神に従い続けよう。その人を神は救う。

死人が生き返るより、もっと!(ヨブ記42:7~17)

 罪を隠しているから災いに遭うのだ(すなわち、正しい信仰者は繁栄する)とヨブを責める友人達に、「真実ではない」と神は言われた。
 ヨブは彼らの為にとりなして祈った。すると、その時からヨブへの神の祝福が始まったという所に目を留めたい。「真理の書」と呼ばれるヨブ記、詩篇、箴言だが、例えば詩篇109:17にも「彼はまた呪う事を愛したので、それが返って来ました。祝福する事を喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました」と逆説的に言われている通りだ。つまり、もしかしたらヨブも、自分を責め苦しめた友人達を憎んだかもしれないけれども、とりなして祈った時に祝福が来たという事だ。財産は以前の2倍となり、子供達も10人与えられた。
 だが問題は、果たして、それを「祝福」と受け止める事が出来るのか、だ。先に死んだ10人の子供達はどうなったのか。死んだ子が生き返ってこそ「祝福」だとは考えないのだろうか。いくら新しい子供が出来ても、死んだ子の代わりにはならない。財産が増えたから、もう、どうでもいいという事なのだろうか。
 いや、ヨブには、それを祝福として受け止める信仰があった。それは「天国でまた会える」という信仰だ。だから彼は、あえて、子供達が生き返る事を求めなかった。地上で死に別れる、それは哀しい事だけど、だからこそ天国で会う、その時には、何にも優る喜びとなる。その希望を持ちつつ、新しく生まれた子供達を愛して幸せに暮らす事が出来る、それこそが「前の半生に優る祝福」、本当の祝福なのだ。
 結局の所、人間の地上での人生における祝福というものは、天国があってこそ意味のあるものなのだと言える。そうでなければ、どんなに大金持ちになっても、成功しても、死んだらおしまいで、苦労も努力も全て水の泡となる。それを主は「自分の為に蓄えても、神の前に富まない者」(ルカ12:21)と言われた。
 神の前に富む者とは、ヨブのように「天国が約束されているからこそ、地上での労苦が報われる」という事を知っている人なのだ。その人は、どのような苦難が襲って来ようとも、決して挫ける事なく、たとえ倒れても立ち上がって進んで行く事が出来るのであり、それゆえに、その人の地上での人生は祝福で満たされたものとなるのである。私達も、そのような「神の前に富む者」となろう。

医者じゃない!(レビ記13:9~13)

 皮膚に異常のある人を祭司が調べて、それがツァラアト(らい病の症状を含む重い皮膚病、NIVでは伝染性皮膚病)だと分かれば「けがれている」と宣言するのだが、紛らわしい場合は7日間隔離して、その後調べ直す。そのような処置は衛生的に妥当だと思われる。所が、「けがれている」と宣言された伝染病の患者を隔離する必要は無いという。それ以上に不思議なのは、その皮膚病が体全体を覆っているなら、その患者は「聖い」というのである。摩訶不思議だ。医学的にはどう考えても、聖いとは言えない。伝染しているのだから。しかし、その判定をしているのは医者ではなく、祭司である。つまり、これは医学的な問題ではなく、宗教的な聖さ・けがれについての教えなのだ。そして、それは他の旧約の教えがそうである(ex.創世記3:21がキリストの十字架の血潮によって義の衣が着せられることのモデルである)ように、新約聖書に現された神の御心によって理解されるのである。
 そもそも「聖」とは、混じり気が無い事を意味する。ゆえに、神に背いて罪が入った(混じり込んだ)人間は、神の前にけがれている訳だ。なのに、その事に気付かない、あるいは隠している状態を、レビ記では「部分的ならい病」に例えているのである。例えば、背中に小さな皮膚病(罪)がある。しかし、自分では見えないし、気付かないから何も問題を感じないかもしれない。しかし、その人は「けがれている」(神の前に罪人である)のだ。しかし、罪を認めて言い表す時、神は聖めて下さる(Ⅰヨハネ1:9)。その事をレビ記は「全身を覆ったらい病は聖い」と言うのである。何故なら、それは表されている(隠す事が出来ない)からだ。そのように、もし自分の内にある罪に気付いて、それを神に告白し悔い改めるなら、神はどんな罪も赦し聖めて下さる。その事のモデルとしての教え、それが「全身を覆ったらい病は聖い」という事なのだ。イザヤは言う。たとい、あなた方の罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる、と。神の約束は真実だ。私達は、救われたのちも、失敗し、御言葉に背く事があるかもしれない。また、苦しい時も、つらい時も、事あるごとに祈ろう。神は全ての悪から聖めて下さる。

続・毒じゃない!(創世記2:8~9、15~17)

 「食べてはいけないものを何故、わざわざ園の真ん中に生やしたのか」 それが多くの人の素朴な疑問だ。結果、人は、その実を食べてしまったのだから、ほら見たことか、と言うところかもしれない。が、しかし、見落としてはならない。蛇が惑わすまでは、その木は人にとって何の誘惑にも躓きの石にもなっていない。目もくれず、動物達の命名に勤しんでいる。つまり、神は決して「ほら見たことか」と言われるようなバカな事はしてはいないのだ。神は『ご自分でだれを誘惑なさることもありません』とヤコブ1:13にある通りだ。
 さて、木の実を食べて善悪を知った人間は、皮肉な事に、善悪をわきまえなくなった。まず、責任のなすり付けだ。それ以降、人間は罪と悪の深みに落ちて行った。何故なら「知る」という言葉は、知識ではなく、体験的に知る事を意味しているからだ。つまり「善悪を知る」とは「良い事も悪い事も実際に体験するようになる」という事なのだ。だから人間は誰でも、たまに良い事をし、時々悪い事をする。完全に聖い人などいないし、完全な悪人もいない。悪い親でも自分の子供には良い物を与える、と主が言われた通りだ。
 人は「命の木の実」は食べてよかったのに、それを選ばず「禁断の木の実」を選んでしまった。しかし、それでも「禁断の木」は置かなければならなかった。本当の自由の為には「最低限のルール」が必要だからだ。ゆえに神は、たった一つの、最善の、全てを満たしたルールを、人間を縛る為ではなく、自由を与える為に定めた。それが「神に従え」だ。そして、従うかどうか、その象徴として「禁断の木」を置いたのである。決して、木の実に毒があるから「禁断」なのではない。神が造った物は全て良い物だ(Ⅰテモテ4:4参照)。神に従わず、自分の欲望とサタンの声に従う事が「禁断」なのである。
 「命の木」は、今や救い主イエス・キリストとして私達の為に備えられている。同時に「禁断の木」(人間の勝手な欲望、サタンの誘惑)も常に隣り合わせだ。だからこそ主は、私を食べろ(マタイ26:26参照)と言われた。命を得る為に。十字架で開かれた「命の道」か、自分の欲望とサタンの声に従う「禁断」か、選ぶのは自分だ。