預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

静かに待て(イザヤ30:15)

 イスラエルが望まなかったもの、それは「立ち返って静かにする事」だ。「そうすれば救われる」と神が仰せられるというのに、である。「立ち返って静かに…」は難しい事なのだろうか。具体的には「立ち返って」は「悔い改めて」である。問題は次の「静かにすれば」だが、悔い改めたクリスチャンでも「騒がしい」人は地獄だろうか?
 似た様な言葉「落ち着いて」が次に出て来る。ここはNKJV聖書では「神への静寂と信頼はあなたの力となる」だ。つまり「落ち着いて」とは「神の前に静まれ」という事であり、言い換えれば「神に信頼せよ、慌てるな」という事、それが「静かにする」という事だ。だから、悔い改めても静かにしない(神に信頼しない)なら、イスラエルの様に約束の地に入れなくなるかもしれないのである。加えて、神の前に静まる事は、祈りにも通じ、それこそ主の働かれる時が来るのを待ち望むという事であろう。例えば使徒2章で使徒達は、主の言葉を信じて(逃げずに)エルサレムに留まって10日間も祈り続けた。まさに、神の前での静寂と信頼だ。そうして彼らは力を得た。また「弱さの中に神の力は働く」とⅡコリント12:9にある。自らの弱さを認める事が出来るのは、神に信頼すればこそだ。それによって力を得るのである。
 しかし、イスラエルはそれを「望まなかった」。神を知っていながら、信頼しなかったのだ。むしろ、信頼しなくても大丈夫だと思っていた(16節)。「それゆえ」恵んでやろう(18節)というのが不思議だ。
 改めて、ストーリーを把握しよう。まず「民を裁く」と警告。でも「こうすれば救われる」と助けの手を伸べる。しかし民は「拒んだ」。「それゆえ恵もうと待つ」という事は、民が拒むのを予測していたからなのだろう。そして予測通り民は拒んだ。それゆえ今度は「民が主を待ち望む様になるのを待とう」と言うのである。それに応えて「主を待ち望む」者は幸いだという事、これがこの話のアウトラインだ。
 結局、神の前に静まれ(神に信頼して神の時を待ち望め)、そうすれば力を得る、と初めから言われている通りなのである。イスラエルはそれを望まなかったが、私達は望もう。神の前に静まって、主を見上げて祈り、主を待ち望む者となろう。

言い伝えではなく、神の言う事を(イザヤ59:19~21)

 終末的メシア預言であるイザヤ書は、神と人との関係の回復を教えるものである。神との関係の回復…その為には人間の罪を処分する事が必要だ。ゆえに神は民の悪を裁かなければならない。その様な文脈の中で語られているのがこの箇所であり、その為にイスラエルを裁くというのが18節だ。それを見て、イスラエルを攻撃していた周りの国々が恐れる。そして彼らの中にも神の裁きの嵐が吹くというのが19節である。これを「日の上る方、すなわち日本の大リバイバルの預言だ」というのは頓珍漢な解釈だ。リバイバルどころか、裁きの預言なのだから。たとえ血統的なユダヤ人(肉のイスラエル)でも不信仰なら裁かれるのだ。『しかし、シオンには』と20節。悔い改めて真の神の民となった者の所には『贖い主として来る』と言うのである。
 とにかく、リバイバルではなく裁き…それが『主の御告げ』だと聖書は言う。大切なのは「神の言う事」を聞く事だ。それを忘れている人々に主は言われた。「イザヤが預言していた通り、あなた方は神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(マルコ7:6~9)と。
 21節。文脈に沿って「悔い改めて真の神の民となった人々」に語られていると理解しよう。彼らの上に神の霊があり、その口に置かれた神の言葉はとこしえに離れないと言う。どんな言葉だろう。真の神の民の唇にいつも在る言葉、それは「イエスは主」と崇める言葉であり、同時に「ことば」であられる主御自身がいつも共にいるという事だ。それが『契約』だと主なる神は言うのである。真の神の民が永遠の御国に入るなら、それからはもう彼らから信仰が離れる事はとこしえに無い。その時、信仰を守る為の戦いは終わるからだ。永遠の命、恵み、幸い…はとこしえに離れる事がない。それが神の契約なのだ。そしてその時、「世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」という主の約束は完成する。それは、世の終わりが来たら離れる…のではなく、世の終わりが来たのちは、もはやとこしえに離れる事が無い、その時までいつも共にいるという事であり、要は、ずっと共にいるという事なのである。この大切な契約を見失わないように、しっかりと握っていよう。

だから、違うって(ミカ4:1~4)

 終わりの日には、多くの異邦人が御言葉を求めてエルサレムに来て平和に暮らすという。同じ事がイザヤ2:2~4にも預言されているのだから間違いなくこれは「世の終わりの大リバイバルの預言」だとする向きもある。それでは続くミカ4:5に『まことに、すべての国々の民は、おのおの自分の神の名によって歩む』とあるのはどういう事か。大リバイバルとは程遠い、昔も今も変わらない現実を聖書は示しているのではないだろうか。
 そもそも「終わりの日」とは何か。例えば『今は救いの日』(Ⅱコリント6:2)の「日」は「恵みの時代」と呼ばれる今を表している。「終わりの日」も同じで、福音による救いの道が開かれて以降の「恵みの時代」(あとは新天新地を残すのみの最後の時代)全てを指すのであり、その時に何が起きるかを預言しているのだ。そして、それは既に起きた。何が起きたか。それは、救いという恵み(福音)が異邦人にも広まったという事だ。異邦人も、御言葉を求めて「主の道を歩もう」と言うようになった。そして、その人は心の平和を得て、もう戦わない(穏やかに平安に暮らす)、心に神の国が建てられるようになったのである。それがミカ4:1~4の預言が直接的に意味する事である。皆がクリスチャンになったら平和でいいね、などという甘い話ではない。幻想・妄想は捨てよう。現実は『すべての国々の民は、おのおの自分の神の名によって歩む』と言われている通りだ。
 『しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の名によって歩む』とミカ4:5後半にある。どこに向かって歩むのか。勿論、天国・神の国だ。そここそ完全な平和、神の家・シオン・新しいエルサレムである。心に神の国を保つ人は、やがて本当の神の国に入る。それがミカ4章の預言のもう一つの意味である。それまでは、5節前半の通り、世は混迷を極める。しかし私達は世々限りなく主の名によって歩むのだ。決して、世の流れなどに流されてはいけない。落ち着いて、しっかりと主の道を、天のエルサレムを目指して歩もう。そこに到達するまで必要なのは「心の平和」だ。その為に御言葉を慕い求めよう。そうすれば争いは止む。神との争いも、人生の戦いも。

本当の癒し(イザヤ61:1~3)

 主はナザレで安息日に礼拝の中でこのイザヤ書を朗読し「今日、この御言葉が実現した」(ルカ4:21)と言われた。メシア預言の成就である。そして主は、そこに記された通り、福音を伝え、癒し、人々を罪と死から解放し自由を与えられた。それが救い主の使命だからだ。
 使命と言えば十字架だが、その直接的な預言はイザヤ53章に詳しい。そこにも、十字架によって実現する事として「平安」と「癒し」が挙げられている。問題は「癒し」だ。「主が十字架で受けた傷によって病は癒された」「主は十字架で勝利を取られた」と教会では語られる。ゆえに「信じて祈れ。癒しこそ勝利だ」とも。すると、癒されないのは敗北だという事になる。ならば、病と同一線上にある(罪の故に人間に入ったものである)死(年老いて死ぬ事も)敗北なのか。
 勿論、神は全能だ。何でも出来る力がある。では何故、癒されないのか。主の十字架で病は癒された、と過去形で言うなら、全ての病が癒されていなければおかしいではないか。何か、どこか大きな勘違いがあるのではないか。改めて61:1を見よう。救い主の使命だ。神は何の為に救い主を遣わしたのか。『心の傷ついた者をいやすため』だ。それも、福音を伝える事によってだと言う。福音によって癒される心の傷、それは、罪故の不幸、苦しみ、悲しみ、嘆き…であろう。サマリヤの女性も、マグダラのマリヤも、福音によって、それが癒された。
 だから、53:5には「病は癒された」とは書いていない。「病を負い、痛みを担った」というのは、人間の弱さ(病、痛み)を知って、その原因である「罪」を背負われたのである。そう、主が背負われたのは『全ての咎』(53:6)だ。そして、彼の打ち傷によって癒されたのは『私達(人間)』だと聖書は言うのである。つまり、神との関係が癒され回復する、それが十字架だという事だ。「神との和解」それが「癒し」なのである。それはⅠペテロ2:24~25でも言われている通りだ。
 ガッカリする必要はない。神が憐れんで下されば癒される事もある。何より、完全な癒しを神は約束してくれている。永遠の命と新しい体である。それこそが究極的な「十字架による癒し」だ。そこに信頼を置き、希望を持とう。そして憂いの心の代わりに賛美を身に付けよう。

詩篇77(型紙は、服じゃない!)

 心に響く、それ故に愛される、それが詩篇だ。が、この1~3節はどうだろう。「苦難の日に神に祈りの手を上げた」……それはいい。しかし「私の魂は慰めを拒んだ」とはどういう事か。神が拒んだならまだしも(例えば、パウロの求める癒しに神は応えなかった。それは神の主権だから仕方ないが)、自分で求めておいて自分で拒むとは、心に響くどころか支離滅裂である。
 実はこの詩はバビロン捕囚の時の事を詠っている。錯乱する程の苦しみの中にいたという事だ。それで詩人は「神に見捨てられたのだろうか」と思って言う(4~9節)。その後、「いや、そんなはずはない。私が弱っているのは『神が心変わりした』と思ってるせいだ」と考え直し、「さあ主の御業(神の救い・出エジプト)を思い起こそう」というのが10節以降だ。神への信頼を自分の中に取り戻す為にそれは良い事である。しかし、この詩はそれを教えたいのではない。確かに神はイスラエルを奴隷から解放した。だが、そのような地上の問題は(例えば、病も)一つ解決してもまた繰り返される。事実、イスラエルはそののちローマに滅ぼされ、ついには国を失い、世界に離散する。
 だから問題は、神の救いとは何か、である。12節で詩人が言うように「神の御業の意味をよく考える」必要がある。つまり、イスラエルに示された「神の計画」は何か、だ。
 そこには一つの「型」がある。「エジプトでの奴隷からの解放~カナン」と「バビロン捕囚からの解放~エルサレム帰還」だ。すなわち「神はイスラエルを見捨てない」という事、それがある意味「型紙」なのであって、例えば型紙に沿って生地が(複雑な形を容易く)裁断され洋服が縫われるように、その「型」に沿って、救い(義の白い衣)が出来上がるのであり、神は、その衣を人間に着せたいのである。
 罪と死の奴隷から人間を救い出して約束の地(天国)へ導く、その「型紙」が「出エジプト」であり「バビロン捕囚からの解放」なのだ。そして救いの「型紙」を示す聖書は、私達を「地上の事だけではなく、天にあるものを想いなさい」と導く。「あなたの心のある所に宝がある」のだ。主の御業を想い、救いを喜び、御心に沿って歩もう。