預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇79(いつまでですか)

 「主よ、いつまでですか」という訴えは、私達の中にも時として起きうる。例えば、家族の救いの時、問題の解決の時が来るのはいつなのか……というように。そしてそれは神に期待するが故の訴えだ。だが詩人は「神がいつまでも妬んでいる」と神を責めるかのように言う。
 確かに普通「妬み」は、妬む側の一方的な問題だ。妬まれる側には責任が無い場合が多い。詩人も「悪いのは私じゃないでしょ? むしろ彼らに怒りをぶつけて」と言う。何故なら「彼らはエルサレムを荒らしたから」だと。そう実は、これはバビロン捕囚の事を言っている(1~4節)のである。しかし、神の怒りと妬みを引き起こしたのはバビロンではない。イスラエルだ(詩篇78:58)。イスラエルの偶像礼拝(霊的姦淫)こそが神の妬みを引き起こした原因なのである。この場合に限って言えば、妬まれる側に非がある。何しろ、イスラエルは神と(夫婦のように)きちんと契約を結んだ間柄であるのに、その契約に違反し、裏切り、他のものに身を寄せたのだから。
 しかし神は、どんなに裏切られてもイスラエルを見捨てなかった。それは決して、何をされても赦せという意味ではない。それは、罪と死に捕らわれている人間への愛(救い)の見本(型)なのである。
 そのイスラエルの物語はまだ終わっていない。真のイスラエルは今もまだ何かに縛られているのだ。だから私達は「主よ、いつまでですか」という訴えに共鳴する。しかし、神は私達を見捨てないという事、その実例が「バビロン捕囚からの解放」なのである。
 いつ、その(解放の)時が来るのか。それは「神などいない」と言う人々が思い知らされる(全ての人が神の前に引き出される、最後の裁きの)時だ。その時、神のしもべは罪の赦しの故に生きる(9~11節)。
 私達は今はまだこの世で、あたかも捕らわれ人のように呻き苦しむのかもしれない。「主よ、いつまでですか」と嘆くかもしれない。しかし神の「愛」は、イスラエルの歴史にはっきり示されている。神を愛する者を神は救うのである。神は見捨てない。神に従い続けるなら報いはある。この詩篇から、神の愛を学び、喜んで、栄光を待ち望んで、今からとこしえまで感謝と賛美を捧げよう。

詩篇78(イスラエルの謎)

 「たとえ話、昔からの謎を語ろう」(2節)と、詩人の意図は明瞭だ。そして、それを先祖代々語り告げるようにと神が定めたというのである(3~5節)。その目的は「のちの世代の者が神を恐れるようになる為」である(6~8節)。結論は明らかだ。「神を恐れよ」である。
 尤もである。「それが人間にとって全てである」とソロモンはズバッと言っているのだから、いちいち昔話やらたとえ話やらを持ち出さなくてもよさそうなものだ。しかし詩人は延々と(昔話を)語る。代表的に12~16節だけを見ても分かるように、それは出エジプトの時の事だ。神はイスラエルを助けた。が、イスラエルは背いた。その繰り返し、それがイスラエルの歴史である。で、最終的には神の憐れみと約束の確かさが示された(70~72節)。何度背いても悔い改めへと導き、約束を成就させる為に救い出した神は真実なお方である。
 しかし詩人は、それを「昔からの謎」「たとえ話」と言うのである。つまり、人々は理解していない、という事だ。イスラエルとは何か、を。何故イスラエルは選ばれたのか、そして神はイスラエルに何をしたのか、を。勿論、昔から聞いて知ってる。けど悟っていない、と。
 パウロは「アブラハムの子孫が、そのまま子なのではない」と言う。バプテスマのヨハネは「肉のイスラエルなど石ころでも代わりが出来る」と言った。「主の御名を呼び求める者は誰でも救われる」という事において「ユダヤ人とギリシヤ人との区別はない」(ローマ10:12~13)。神の約束を信じて生まれた神の子、それが本当のイスラエルなのである。しかしユダヤ人は悟らなかった。「我らはアブラハムの子孫である」と誇った。そんな彼らに主は言われた。「忌まわしい」「あなた方も悔い改めないなら滅びる」と。
 イスラエルの歴史(すなわち旧約聖書)が、全ての民族に語り継がれているのは「神に信頼して、従って生きるようになる為」(6~8節)である。それが「昔からの謎」の答えだ。つまり、この世の旅路にどんな苦難があろうとも、神の約束に信頼し従う者を、神は必ず約束の地に導き入れる。それがイスラエルを通して全ての人に示されているのであり、その神に信頼するように、という事だ。それが神の願いである。

最も美しいって、私がか?(雅歌1:1~4)

 雅歌とは、歌の中で最も優れた歌という事だが、何がそんなに良いのか。一読すると単なる恋文のように思える。視点もコロコロ変わるし、意味不明な文もある。これ位なら簡単に書けると言う詩人もいるかもしれない。しかし、雅歌の素晴らしさは技巧的な良し悪しにあるのではない。誰に対するどの様な愛を歌っているのかがポイントだ。
 それは勿論、人間に対する神の愛だが、どのような愛か。まずは神は「人を救いたい」と愛して下さった。この意味においては全ての人は愛されている。これが全ての人への神の第一段階の愛だ。が、多くの人は、それを拒んでいるのだから、せっかくの愛も意味をなさない。しかし、その愛を受け取った人は「神の子(民)」とされるのであり、その人に対して神は「私の目にあなたは高価で尊い。愛している」と言って下さる。これが第二段階の愛であり、そこを雅歌は歌っている。「女の中で最も美しい人よ」と。勿論、女性限定ではない。人間を「女」に見立てて「黒いけれども美しい」と歌うのだ。つまり、人間はそもそも罪で真っ黒に汚れているけれども、そんな人間を救いたいと愛して下さった神の「第一段階の愛」を受け入れて「神の子」とされた人の事である。これが「歌の中の歌」と言われる理由の一つだ。つまり雅歌は「歌の形式で語られた福音」なのである。
 ただ、勿論、神の愛は最高だが、それを無にする事も出来る。それを拒む事によって。まるでゴミの様に扱われてしまうのだ。だから、本当に最高なのは、神の愛を受け取って喜び味わい、神を愛す事だ。そうであってこそ、最高の愛がその素晴らしさを発揮し、最高の愛の歌となる。それゆえ人視点である2~4節の中で、神との深い交わりを求めて語られているのである。神の臨在の中に入る事を切望するのは、それが無いと苦しくなるからだし、罪で真っ黒になっていた時の惨めな自分に戻りたくない(救われた喜びを失いたくない)からだ。
 結局、この個所の結論は「神を慕い求めよう」である。神との深い交わり(祈り、賛美、礼拝)、その中で聖霊の慰めを、神の恵みを、受け取ろう。そのようにして、神の「最高の愛」を本当に素晴らしいものとして、「女の中で最も美しい」と呼ばれる幸いな人となろう。

手抜き禁止?(申命記6:4~5)

 モーセは「絶対忘れないように」と念を押して教えた。そして、これが「一番大切な戒め」だと主は言われた。それ程に大切だという事は、それ程に実行が難しいという事でもあると言える。何故なら、放って置いても自然に出来る事ならわざわざ戒める必要が無いし、大事な事に限って、無理にでもさせなきゃやろうとしない、それが人間だからだ。神を愛するという事も、アダムとエバの時からの、人間にとっての最大の課題だと言える。それにしても「全てを尽くして……」は難問だ。手加減、手抜きなどもってのほか。楽をしようなど思ってはならないのだから。これは人間の性質と相容れない。人間は、とにかく楽をしたい生き物だ。文明の発達・便利な物の発明は、全てその為だと言っても過言ではあるまい。ゆえに、もし怠けようと思えば、頑張らなくても簡単に怠けられる。怠ける訓練は要らないのだ。
 それ故に戒めが与えられている訳だが、しかし、それでも「全てを尽くして……」は、しんどい。例えば日曜の礼拝で、余力を残してはいけないとするなら、月曜は仕事を休むのか。財布が空になるまで献げよと言うなら、教会からの帰りの電車賃はどうするのか。
 何が「一番大切」なのかだ。もし賛美に力を尽くさず手抜きをしたら地獄だろうか。礼拝中に昼食の心配を少しでもしたら滅びだろうか。いや、信仰において一番大事な事は「地獄に落ちないようにする」事であり、そうなってしまう理由は「神に背を向ける」からであり、それが「罪」というものだ。
 そこで、この「神を愛せ」という戒めの前提は何か。それは「神は唯一」(4節)だという事である。主があなたの神だから、他の神を愛するな(すなわち、主を愛せ)という事だ。決して他の神になびかないようにする、その事に「力も心も尽くせ」という事なのである。
 だから、疲れて全力で歌えない時があっても構わない。どんなに信仰が弱っても「他の神に頼らない」という事、それだけは「全力を尽くして」避けるべきなのだ。それが、滅びない為に「一番大切な事」だ。主が言われたように「どうしても必要なのは一つだけ」である。真の神だけを愛する(他の神を愛さない)事に全力を尽くそう。

球体の影は、四角にはならない!(イザヤ40:28~31)

 モーセは詩篇90で「人の齢はせいぜい80年」と言っているのに、何故か「モーセの様に自分も80から」と信じ込む人がいる。確かにイザヤも「主を待ち望む者は新しく力を得る。疲れない」と、老化を否定するような事を言っているが、「新しい力」とは何なのかが問題だ。
 「旧約は影(シルエット)で、新約はその実体」と言われる。すると、もし実体が球体であるなら、その影は丸であるはずだ。決して四角にはならない。つまり、新約に無い教えを旧約から捻り出してはいけないという事だ。そこで、新約に「120歳までバリバリ元気に働ける」という教えがあるか、だ。もし旧約に、それと思える記述があったとしても、新約に無いなら、それは見誤りである。球体のシルエットを四角と見間違えているのだ。言うまでもなく人は疲れ、老いて死ぬ。加えて、神を知らないままなら滅びる。だから人間には救いが必要なのであり、その為にキリストは来て下さった訳で、その救い主来臨(実体)のシルエットが旧約なのである。そういう訳で、この「新しい力」というシルエットの実体も新約から見出さなければいけない。
 英語の聖書では、それは「リニュー」(刷新)である。例えばペテロ。主を信じていた。しかし有限で、疲れ、恐れ、疑い、気落ちし、ついには主を裏切った。だから、その弱い「信じる力」を力強い信仰へと刷新するという事だ。事実、主の昇天ののち10日間、祈り待ち望んだ弟子達は聖霊によって力を受け、人を恐れないで主を証する者と変えられた。イザヤ書はそのシルエットを映しているのだ。それが「主を待ち望む者は新しく力を得る」なのである。この様に旧約は、新約の教えに至る読み方をしなければいけないのである。
 更に言えば、この箇所は27節(イスラエルは困難の中で神への信頼を失っていた、という事)に対する神の返答である。それが「あなたは知らないのか。たとえ困難があっても、神が力を新たにし、信仰を強める」という事だ。新約にあるように「(神への信頼を)持っている者は、更に与えられて豊かになる」のであり、ついには天で新しい命を得るのだ。それが影なる旧約が示す「信仰の実体」である。この信仰を掴むなら、力を得る。倒れない。天の御国にまで上るのである。